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六歌仙のなぞ(7)

第三章「惟喬親王は木地屋の祖?」

◆近江木地屋の伝説◆

 木地屋(木地師)とは、ろくろを使って椀などの木地を成型する職人の事である。その木地屋に、ひとつの伝説が伝えられている。小野宮惟喬親王は、木地屋の祖であるというのである。そのあらすじというと、次のようなものである。


 文徳天皇が崩御して、清和天皇が即位した。年号も貞観と改まり、世間に嫌気がさした惟喬親王は、比叡の麓、小野の里に隠棲した。
 その後、藤原実秀ら数人の共のみで、ひそかに近江の湖東にある小椋おぐら谷へと逃れた惟喬親王は、そこの小松畑というところに宮を作り、実秀を小椋太政大臣に任命した。
 しばらくして、天変地異が相次いだが、それは親王が不遇な生活をおくられているからとの占いが出たので、朝廷は勅使を使わして、親王に領地を下賜された。のちに、それが小椋庄とよばれるものである。
 その後、親王は出家して素覚と称したが、ある時、法華経の巻物の軸からろくろを思いついた。そこで、付近の杣人にこれを教え、椀や膳の製法を授けた。これによって、惟喬親王は、木地屋の祖神と呼ばれ、あがめられるようになったのである。


 この物語は中世の小椋庄、現在の滋賀県神崎郡永源寺町蛭谷、及び君ヶ畑に伝えられた伝説である。この物語が成立したのは十二、三世紀ごろとみられ、時宗の唱導師や、山から山へ移動する木地屋によって全国に広まった。その狙いは、惟喬親王というシンボルの下に、木地屋を統括、組織化するためだったと考えられている。「氏子狩(氏子駈)」という形で木地屋の名簿を作り、全国すべての木地屋は小椋谷を発祥の地としたのである。
 もちろん、惟喬親王は小椋谷には住まなかったし、ろくろの発明もしなかった。しかし、どうして親王が木地屋の祖になってしまったのだろうか。

 惟喬親王は小野宮という別名があったことは、繰り返し述べた。小野の地はもともと小野氏の土地で、そこには小野の氏神が祀られてきた。惟喬親王が住んだ小野は、比叡山の西の麓、現在の一乗寺の辺りといわれているが、はっきりとした位置はわかっていない。一乗寺の付近は今では市街地になっていて、あまり山里という感じはない。
 小野の領地はそこから更に北へ、上高野から八瀬、大原の方まで広がっていた。上高野には小野という地名があり、崇道神社は小野氏の古墳で、小野毛人(小野妹子の子)の墓もある。大原には惟喬親王の墓があり、現在宮内庁の管理下にある。そのすぐ近くには小野御霊神社があって、祭神は惟喬親王である。この辺りに来ると、いかにも山里で、親王が隠遁生活をしたのにふさわしいような気がする。

 その比良山地の東側、琵琶湖に面した土地は、小野氏の本貫の地といわれている。
 小野氏は古代氏族和迩氏から分かれた一族で、琵琶湖の西岸には和邇と小野という地名がある。(滋賀県大津市)。小野には小野篁や小野道風を祭神とする神社もあり、小野神社もある。小野神社の祭神は小野氏の先祖の天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみこと鏨着大使主命たがねつきおほおみのみことという。鏨とは鉱石を砕く道具のことで、この辺りは金糞や鑪など、金属に関する地名が残っていることから、小野神とは斧の神、つまり鍛冶神ではないかと考えられている。つまり、鏨着大使主命は鍛冶神を祀る呪師ではなかったかというのだ。琵琶湖周辺には他にもマキノ町海津の小野神社、草津市野路小野山があり、そのどちらにも付近に製鉄遺構跡が残る。また、斧は樵も使うものなので、木工製作者たちにも信仰されていた。更に小野神は水神の性格もあった。
 なお、鏨着大使主命は餅搗大使主命とも書き、現在製菓業者に信仰されているが、これは餅から連想されたもので、最近の信仰であろう。

 ところで、小椋谷を含む神崎郡一帯は依知えち(愛知)秦氏が住んだ土地だった。秦氏は渡来系氏族で、八幡神を信仰していた。八幡神は金属神である。蛭谷の筒井八幡は彼らの氏神で、惟喬親王も祀る。金属神を信仰してきた彼らは、小野神も信仰してきた。それが、小野宮の別名を持つ惟喬親王との接点ではないかという。小野宮と小野神が重なって、いつしか依知秦氏の木地屋たちが親王を信仰の対象とするようになったのではないか。
 さらに、その信仰を広めたのは時宗門徒であるという。時宗二世他阿[1237~1391]は、小野神を小野大菩薩として時宗教団の守護神とした。そして、小椋谷に遊行した門徒は、轆轤師(木地屋)と小野大菩薩の結縁を行ったというのだ。近江の小蔵律師が他阿に見参門法(直接に仏法を聴く事)をしているが、この小蔵律師が小椋谷出身者ではなかったかというのである。(橋本鉄男『木地屋の世界・漂泊の山民』白水社)

 小野神は小野宮とドッキングして、あたかも惟喬親王が小椋谷に来たような話になり、全国の木地屋は小椋姓を多く名乗る一方、親王を木地屋の祖神とあがめた。彼らが、十六葉八重表菊花紋(皇室の御紋)を多く家紋に用いたのは、こうした親王とのかかわりを強調したものだという。(現在では商標法の規定があり、家紋に用いているかわからない)

 余談ではあるが、菊花紋については、皇室とのかかわり云々よりも、もともと山人たちが持っていたシンボルではないかと考えている。花ではなく、星辰か太陽ではないか。日本固有のものというより、オリエントに起原があるのではないかと思うが、ここでは詳しく追及するのはやめておく。河内の山人の豪族楠木正成なども菊水の紋を用いていたし、後鳥羽天皇の菊の御紋以来、皇室の家紋とされているが、それと山人の菊花紋は別系統ではないかと思う。

惟喬親王

◆喜撰法師の正体◆

 「わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と人はいふなり」
 百人一首にも採られた、喜撰法師の歌である。その意は(私の庵は都の東南(辰巳)の宇治山にあり、鹿も棲む山奥である。世間の人は憂しき山というけれど、私は然とこうして住んでいます)。宇治山を憂し山にかけ、またしかぞ住むを鹿が棲んでいるというのと、然と住んでいるの両方にかけている。
 洒落の効いた軽妙な歌で、あまり暗さは感じられない。が、この歌を贈られたであろう、たぶん都に住む人は、喜撰は寂しい山奥で暮らしていると想像していたのではないだろうか。だから、喜撰はわざと、「そうでもありませんよ。都の人はそう思っているでしょうが、私はこうして憂くもなく暮らしているのです」と、歌に詠んだのではないだろうか。

 ところで、私はこの歌から、別のある歌を思い出した。
 「奥山に もみぢ踏み分け鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
 『古今集』では読み人知らずだが、『百人一首』では猿丸太夫の歌となっている。深山に鹿の声を詠んだ歌は珍しくないと思うが、特にこの歌を思い出したのには訳がある。『古今集』の真名序で、大友黒主を「古の猿丸太夫の次なり」と評している部分である。黒主と猿丸太夫と、そして喜撰法師。この三人の関係は後回しにするが、猿丸太夫の名前が真名序にあったおかげで、二つの歌が妙に重なってしまったのだ。
 「奥山は……」は、三十六歌仙の選者藤原公任が、読み人知らずの歌の中から選び、猿丸太夫のものとしたらしい。しかし、なぜ公任がこの歌を選んだのかといえば、猿丸太夫に山奥の隠者のイメージがあったからだろう。そして、喜撰法師にも同じイメージがあった。

 第二章で、喜撰は「紀仙」ではないかと書いた。紀氏の僧侶で、山奥に仙人のように暮らしたので、この名を称したのではないかというのだ。(高崎正秀『六歌仙前後』)
 紀氏出身で、このように隠棲した人といえば、思い出されるのが真済僧正である。
 真済は空海の直弟子の一人で、高雄寺(神護寺)僧正、東寺一の長者、実相寺僧正という輝かしい経歴を持つ。父は紀御園で、紀名虎は従兄弟である。惟喬親王を皇太子にするために祈祷し、染殿后や文徳天皇の病気平癒の祈祷をしたことは前述の通り。
 また、別名を柿本紀僧正ともいう。柿本は、真済が失意のうちに隠居したという、大和国柿本山影現寺ようげんじ(奈良市葛城市柿本)からそう呼ばれた。この寺は真済が創建したとされ、境内には柿本人麻呂を祀る人麿堂があった。今も残る柿本神社(人麿堂)に安置されている柿本人麻呂の神体は、真済が自ら彫ったものという。この地は元々柿本氏の土地だったのだ。

【柿本人麻呂と猿丸太夫】
 第一章でも少し触れたが、柿本人麻呂は謎の多い人物である。そして、人麻呂を猿丸太夫と同一人物とする伝承もある。『続日本紀』の和同元年[708]四月二十日の条に、「従四位下柿本朝臣佐留卒す」とあり、これが人麻呂の事ではないかという説がある。人麻呂が残した歌から、彼は尋常な死に方をしなかった。おそらく処刑されたのだろうと推理して、人麻呂が高位高官らしい(?)のに、その卒伝が正史にみえないのは処刑されたからで、きっと名前も人麻呂から、卑しい猿(佐留)に貶められたというのだ。
 この説は歴史学者には支持されていないけれど、確かに人麻呂と猿丸を同一視する伝承はあったのである。

 柿本氏は小野氏と同じ和迩氏の一族である。小野氏には小野猿丸という伝説の人物がいる。『日光山縁起』にそれは出てくる。栃木県日光の二荒山神社にまつわる物語である。


 
 


 昔、有宇中将という人は狩が好きで、それが原因で都を追われて下野(栃木)に流れてきた。そこで、朝日長者の娘(朝日姫)と結婚し、姫は馬王(または馬頭御前)を生んだ。馬王は侍女とちぎって子をもうけた。その子が猿のように醜かったので、猿丸と名付けた。
 有宇中将、朝日姫、馬王は、その死後日光三所権現として祀られ、それぞれ男体本宮祭神、滝尾女体中宮祭神、新宮太郎明神とされた。
 さて、ある時、上州(群馬)の赤木の神が、中禅寺湖を自分の領地だと主張した。二荒の神はこれをはねつけたが、赤木の神は怒って攻めてきたのである。赤木の神の猛攻はすさまじく、二荒の神は負けそうになった。そこで、見かねた常陸(茨城)の鹿島の明神が、二荒の神に人の孫がいる事を教えてくれた。捜してみると、奥州の小野という所に、小野猿丸というマタギ(狩人)がいた。猿丸は白鹿(二荒神の化身)に導かれて、日光までやってきた。
 二荒の神は、猿丸が自分の孫であること。赤木の神が大蜈蚣に化けて攻めてきて、二荒の神も大蛇になって戦っているけれども、負けてしまいそうなので助けてほしい。もし、大蜈蚣を退治してくれたなら、この山を狩場として与えると告げた。
 そこで、猿丸は矢を放って、大蜈蚣の右目を射抜いた。痛みに耐えかね、大蜈蚣は逃げ出して、猿丸もそれを追って、とうとう利根川まで来て追い払ってしまった。
 猿丸はその功により、約束通り日光周辺の山の獣を獲る権利を得、死後は二荒山神社の祭神(宇都宮明神)として祀られたのである。

 


 この話は東北のマタギの間に伝えられた『山立やまだち根本之巻』にも同様の話があり、猿丸の名が盤司盤三郎ばんじばんざぶろうとなっている。(盤三郎を、猿丸と山姫の子とする。)
 日光三社権現の社務職は代々小野氏が務めてきたのであり、その系図は、

となっている。ここでは、小野毛野が小野猿丸のことではないかと推定されている。(『日本史謎の人物一〇八人』新人物往来社)毛野は中納言従三位で、八世紀の初め頃の人(和銅四年[708]薨)である。「黒主から見て古の人」なので、これが猿丸太夫のことであるという。それはともかく、柿本人麻呂が『古今集』序文で正三位とされているのと、関連付けると面白い。

【真如法親王と真済の関係】
 紀真済がなぜ隠居所を柿本にしようと思ったかはわからない。柿本山影現寺は天安二年[858]が創建と伝えられている。(斉衡二年[852]説もある。)天安二年は文徳天皇が崩御した年で、真済が失意のうちに隠居した(『三代実録』)年だ。隠居の地を柿本に決めてから寺を建てたのだとすると、そこが完成するまで、真済はどこにいたのだろう。高雄山寺だろうか。
 真済は宇治山にいたのではないだろうか。その証拠は何もないが、手掛かりはある。喜撰法師が宇治山に来る前に、山科の醍醐に住んでいたらしいのである。

 空海の弟子に真如がいる。出家前は高岳親王といった。平城天皇の第三子で皇太子だったが「薬子の変」で廃太子になった人である。
 承和二年[835]超昇、不退の二寺を建立し、その年の三月に空海のために七十七回忌を、真然、真済、真紹、真雅らと修す。また、翌年、真済、真然が入唐するに際しては、唐の青龍寺義明に書簡を託している。斉衡二年五月、奈良東大寺の大仏の頭が落下してしまったが、真如はその修復の検校に任ぜられている。
 真如は後年(貞観四年[862])、弟子と共に唐に渡っている。更に天竺(インド)を目指すが、羅越国(現在のシンガポールあたり)で病で亡くなった。一時は皇太子にまでなった人で、異国で死んだ人は、この真如法親王以外にはいない。因みに、真如の息子は在原姓を賜り、在原業平、行平は甥にあたる。
 この真如が、別名山科禅師親王といわれたことから、醍醐山科あたりに住んでいたらしいのである。真如と真済は前述のとおり関係が深い。真済が隠棲の地を真如がいる醍醐に求めても不思議はない。

 更に真済は都から遠い宇治に引きこもり、仙人のような暮らしぶりから「紀仙」と称したのではないか。喜撰は紀仙を佳字に改めたものと考えられる。
 真済は影現寺が完成してそこへ移ったけれども、貞観二年[860]二月に死んでいる。影現寺にいた時期は意外と短かった。

【橘氏系図の喜撰】
 『群書類従系図部集』に収められた橘氏系図に、喜撰の名が見える。

 橘氏は敏達天皇の後裔で、紀氏とは別氏族である。橘奈良麿は奈良時代の人で、孝謙女帝に仕えた。
 孝謙天皇は藤原仲麻呂(恵美押勝。藤原不比等の孫)を寵愛していた。孝謙は女帝であるが故に結婚を許されていなかった。当然子供は産めないので、後継者問題が起こる。先帝の聖武天皇はそれを見越して、孝謙の跡継ぎには道祖王を立てよと遺言した。いったんは承知した孝謙天皇だったが、聖武天皇が崩御するや皇太子を廃してしまう。道祖王に代わって皇太子に立てられたのは大炊王という人だった。大炊王は仲麻呂の食客だった。つまり、居候である。だから、大炊王は仲麻呂の言いなりだったのである。
 孝謙天皇と仲麻呂の仲は、そうした状況の中で、ますます親密にスキャンダラスになってゆく。橘奈良麿はこれに危機感を抱いた。そこで、仲麻呂を誅殺して、道祖王を皇太子に復活させ、孝謙天皇にご退位願おうと計画したのだった。ところが、これをいち早く察知した仲麻呂は、逆に奈良麿を謀反人として捕らえた。こうして「奈良麿の乱」は失敗に終わり、一時は藤原氏と拮抗する勢力だった橘氏も、衰退していくのである。
 その奈良麿の孫に、嵯峨天皇の皇后になった嘉智子と、「三筆」の一人で遣唐使にもなり、のちに「承和の変」で失脚した逸勢がいる。嘉智子と逸勢は従兄弟だが、「承和の変」では、一方は阿保親王の讒訴を受けて藤原氏と共に事件を納めた側、もう一方はクーデターの首謀者とされて伊豆に流され、のちに怨霊となって都を襲うのである。

 その橘氏の系図に、なぜか喜撰が紛れ込んでいるのである。上記の系図はかなり乱れが見られる。まず、逸勢を奈良麿の子供としているが、逸勢は入居の子で、奈良麿の孫である。それに、喜撰を第二子とするのもおかしい。第二子は清友である。いったい、何を根拠に喜撰を奈良麿の子にして、しかも第二子と記したのか。
 これはやはり、喜撰をただの隠者の僧ではないと感じていた人がいたからではないだろうか。「奈良麿の乱」や「承和の変」で、藤原氏のために没落していく橘氏に、喜撰を加えたことは、何か意味があったはずだと考える。
 一応、一般的な橘氏の系図をあげておく。


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