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六歌仙のなぞ(15)

◆光孝・宇多天皇と藤原氏◆

【光孝天皇、ぎりぎりの抵抗】
 光孝天皇と基経は母同士が姉妹、つまり従兄弟の関係だった。五十四歳の即位はまさに青天の霹靂。しかし、これが「棚から牡丹餅」だったかどうか。
 光孝天皇に白羽の矢が立てられたのは、もちろん陽成天皇の血筋を継がせないためだし、陽成天皇のにわかな退位(実際は廃位)に伴う朝廷内の権力闘争、混乱を収拾するには、誰からも恨みを買わない人物が良いと思われ、その温厚で風雅な性格が「政治的には無害」との評価を得た為だろう。実際、基経に対して、「奏すこと下すこと」すべておまえに相談するよ、と言っているし、先にも書いたように自分の皇子たちは全て臣籍降下させ、皇位を継がせないと約束したのだった。
 こうして、基経は危機を回避して、権力を思いのままにした。

 ところが、ままならぬのがこの世の常である。死の間際、光孝天皇は臣籍にあった源定省さだみ(第七皇子)に、皇位を譲りたいと言い出したのだ。しかも、基経の妹の内侍淑子が定省を養子にしていて、彼女にも強く推されたので、とうとう基経も折れて承知したのだった。こうして即位したのが、宇多天皇である。

【光孝天皇と遍照】
 ところで、光孝天皇と遍照は乳兄弟だった。そのため、遍照は光孝天皇に寵愛され、遍照の七十歳の賀を天皇が催してくれるほどだった。
 こうしてみると、六歌仙の中では、遍照は一番うまく立ち回ったようである。これも、藤原氏との政治対決を早いうちに回避して、出家したのが幸いしたのだろう。その上、遍照は自分の息子も出家させた。自分の家系に政治的野心が無いことを、藤原氏に示したかったのだろうか。
 なお、宇多天皇は遍照に息子の素性法師を厚遇し、法師が良因院にいたことから「良因朝臣」と、俗人のように呼ばせたという。

阿衡あこうの紛議】
 仁和三年[887]閏十一月、宇多天皇は即位早々、基経に関白を命じた。慣例に従い、基経はいったん辞表を提出した。これを受けて、天皇は基経を阿衡に任ずるという勅命を与えた。この「阿衡」という役職について、基経は猛然と反発するのである。

 そもそもこの勅は、橘広相という学者によって作成されたものだった。これに対し、基経の家司だった藤原佐世が、阿衡は職名ではないと反論したのである。佐世もまた、一流の学者として名高かった。
 佐世は基経に、阿衡は役職ではなく位名に過ぎない。つまり、実際の典職はなく、名ばかりの任だから、解任されたも同じだと言ったのだ。これを聞いて、基経は数か月に渡って政務をボイコットしたため、あらゆる事務は滞り、朝廷は混乱に陥った。
 仁和四年五月、事態打開のため、左大臣源融は明経博士をして勘文を奉らせた。しかしその答えは「阿衡には典職はない」というものだった。橘広相はこれに対して反論した。
 ついに六月、広相と佐世を直接対決させたが、これも結局結論が出ず、基経も強く突っぱねたので、とうとう天皇の方が、「広相が勅答に引いた阿衡というのは、朕の本意ではなかった」と折れてしまったのだった。広相はそれ以降、死ぬまで蟄居したという。

 ところで「阿衡」というのは、中国殷周時代の古い制度で、三公(太師、太傳、太保)の官名という。仁和四年に出された明経博士善淵愛成らの出した勘文によると、「晋書職官志のよれば、三公は陰陽を調べ、九卿は寒暑に通じ、大夫は人事を知り、烈士は其の私を去る」とあって、正直言って何のことだかさっぱりわからない。
 しかし、阿衡を直訳すれば、阿はよる、衡は平らという意味で、人民が(阿衡に)って平らかに治まるという意味で、つまり宰相のことだった。広相は宰相という意味で、この阿衡という言葉を採用したに過ぎなかったのだ。
 基経が阿衡という言葉ひとつに大騒ぎし、ここまで強硬な態度に出たのは、宇多天皇の出鼻をくじくためだった。先帝の強い願いで、しぶしぶ即位に承知したが、だからといって、自分を差し置いて勝手なふるまいは許しませんよ、という牽制だった。
 また、宇多天皇は橘広相を信任していたので、広相を天皇と切り離す狙いもあった。
 宇多天皇はしかし、一旦は折れたものの、基経一族の権力独占をこのまま見過ごしにするつもりはなかった。

【菅原道真登場】
 寛平三年[891]、藤原基経が死去した。基経の権力は、そっくり息子の時平が継ぐものと思われたが、宇多天皇は摂政関白を置かなかった。時平はまだ若く、宇多天皇即位の時とは逆に、出鼻をくじかれた格好になった。
 宇多天皇はまた、儒学者出身の菅原道真を起用。時平の対抗馬にあてた。当時四十七歳の道真を蔵人頭に任じたのだ。二年後には参議に、五十一歳で中納言、五十三歳で権大納言、右大将と進み、昌泰二年[899]右大臣にまで上りつめた。異例のスピード出世である。
 当然、これに対して他の公卿たちの妬みはつのった。道真は文学的教養が高く、詩文に優れた才能を発揮したが、政治的手腕には欠けていた。性格的にも、他人の立場や心情に配慮を欠き、常に自分を正しいとして曲げないところがあった。こうした道真自身の欠点も、反道真派の反感を高める原因となった。

 寛平六年[894]八月、参議左大弁菅原道真は遣唐大使に、左小弁紀長谷雄が副使に任命された。前回の遣唐使から、実に六十年ぶりである。長らく途絶えていた遣唐使を、この時期になぜ発遣する必要があったのか。これはやはり、反道真派の画策ではなかっただろうか。
 副使に選ばれた紀長谷雄はやはり文人政治家で、道真の親友でもあった。反道真派は、こうした文人系の人々を海外に追いやるのが目的だったのだろう。
 道真はこれに対して、遣唐使の廃絶の議定を提出するという対抗策を打ち出した。理由は、唐の国状が悪化しているということ、新羅との外交関係が悪化し、渡航に危険が伴うことなどである。確かに、唐は末期的混乱に陥っていたが、考えてみれば渡海に伴う困難は以前の遣唐使でもいえたことで、特にこの時期だから危ないという訳ではなかった。しかし、道真の議定は取り入れられて、遣唐使は廃止。道真は取りあえず窮地を回避した。

【道真左遷】
 宇多天皇は寛平九年[897]に、息子の醍醐天皇に譲位した。しかし上皇になった後も、道真を支持し続けた。昌泰二年[899]の道真の右大臣昇進も、宇多上皇の後押しによるものだろう。これによって道真は、左大臣時平に次ぐ地位になった。

 時平はついに牙をむいた。延喜元年[901]、道真を突然、右大臣から太宰権帥に降格したのだ。事実上の左遷である。これは、中央政界からの追放も同然だった。時平の強硬策をクーデターと表現する人もあるが、この左遷には醍醐天皇の承認があったのは確かである。風流好みの宇多上皇と違い、醍醐天皇は実務的な人で、父親とは微妙な対立関係にあった。醍醐天皇は、どちらかといえば時平的な政治家を好んだのだった。
 実際問題として、上皇と天皇の対立は、次の皇位継承者問題に影を落とし、上皇と道真が結託して、醍醐天皇の弟の斉世親王に譲位させようという計画が密かに進んでいる、という噂があったのだ。斉世親王の母は「阿衡の紛議」で失脚した橘広相の娘義子、そして義父は他でもない、道真なのである。

 道真が太宰権帥に決まったことを知った宇多上皇は、宮中に駆け付けたが、近衛兵は頑として門を通そうとしなかった。
 大宰府で、道真は悲嘆にくれる毎日を送った。自らを悲劇の詩人として、その孤独を詩に託し、それを京の友人に送り続けた。それは『菅家後集』として、今に残る。そして、左遷から二年後、五十九歳で悲憤の生涯を終えた。

【陽成院と宇多院】
 光孝・宇多親子に帝位をさらわれた陽成院は、当然両者と仲が悪かった。
 宇多天皇の行列が二条院の前を通りかかった時、陽成院はあからさまに不快感を表した。「当代は家人にあらずや、悪しくも通るかな」かつては自分の家来だったではないか。ここを通るな、というのだ。
 宇多天皇も、陽成院が町で狼藉を働いたり、左大臣源融の別荘に馬で乱入したことなどに対し、「悪君の極み、今にしてこれを見る」と、負けていない。
 こんな二人だったが、共通の天敵がいた。言うまでもない、基経、時平親子である。宇多上皇は道真を武器に対抗したが、結局は惨敗した。醍醐天皇は時平とがっちり手を組み、宇多上皇にはもはや政治に介入する隙はない。そうなると、宇多上皇と陽成院の間に、奇妙な連帯感が生まれた――いや、生まれたと想像される。というのも、陽成院が宇多上皇の同母妹と結婚しているからだ。
 「つくばねの峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」という陽成院の歌は、宇多上皇の妹、釣り殿の皇女に捧げられたものである。

【陽成院の皇子と時平の娘】
 驚かれるかもしれないが、藤原時平の妻は在原業平の孫だった。初めは時平の叔父国経の妻だったが、それを時平は横取りしてしまったのである。彼女は祖父譲りの美貌の持ち主だった。
 娘の褒子(京極の御息所)も、両親の美貌(時平も美男子だった)を受け継いだ。褒子は醍醐天皇に嫁ぐことになっていた。ところが、出発しようとした時、宇田法皇が現れて、何と息子の嫁をさらって行ってしまう。端無くも母娘揃って略奪された花嫁になってしまったのである。

 宇田法皇は、亡き左大臣源融の子から、河原院の屋敷を献上された。河原院は陸奥国の塩釜の景色を模して造られた庭が自慢だったが、融の死後はだんだん寂れて荒れ放題になっていた。
 宇田法皇はここに度々行幸したが、寵愛の褒子を連れて行くこともあった。ある夜、二人が河原院で過ごしていると、真夜中に融の亡霊が現れて、褒子の腰に抱きついた。褒子は気絶してしまい、加持祈祷で漸く正気に戻ったという。亡霊にまで懸想されるほどの美人だったわけである。尤も、融の亡霊はそれ以外の時にも、何回も現れている。余程この世に未練があったとみえる。

 陽成院の第一皇子元良親王が、こともあろうに褒子を好きになってしまった。武芸好きで女っ気の少ない父親とは対照的に、元良親王は好色で有名だった。元良親王は、宇田法皇がことのほか褒子を寵愛しているのを承知で、ラブレター(もちろん、和歌)を贈っている。もしこれが、宇田法皇の耳に入りでもしたら、褒子は不義密通で罰を受けることになる。
 どうも、業平に関係ある人々は、危険な恋、禁断の恋に落ちる傾向があるようである。業平にしても二條后や伊勢斎宮との恋があったし、今度は、不遇の皇子が命がけの恋を業平の曾孫に捧げているのである。業平も元良親王も、天皇と藤原氏という二大権力に色好み(風流)で挑戦したのだった。しかし、元良親王の恋が受け入れられたかどうかは分かっていない。

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