5/4 春のうちにもう来ないかもしれない春のこと

五月に入って数日経過したのでありますが、今年のゴールデンウィークは例年とは違っております。外出の自粛が要請されて飲食もままならず、とても黄金【ゴールデン】というわけにはいかない。今年のゴールデンは、イミテーション・ゴールドです。嗚呼、嗚呼、嗚呼、イミテーションゴールド。

桜の季節はもう終わっておりますが、また次の春が訪れるとは限らない。これが最後の桜になるかもしれない。そんな想いにとらわれる人はきっと年齢の如何に関わらずいるようで、私自身もその念と無縁ではありません。
春はどこか憂鬱で、とてもかなしくなります。だいいち、風が強すぎる。風は闇よりこわい。
もし桜が咲かなかったら、外にも出たくない。桜が咲くせいで、誘われるように外出してしまう。

春といえば、暖かでポカポカしてて、柔らかな光のもとに出会いがきらめき出すという、そういうことになっている。そうでないとこの謎の季節は底知れない深淵のように恐ろしいものになってしまう。
四季とはいうものの、春は本当はないのかもしれない。秋も同じような趣がある。夏と冬しかなくって、春と秋はその繋ぎでしかないウネウネしたヌルヌルに過ぎないのかもしれません。

萩原朔太郎にとって春は、深い穴の奥から動物たちが一斉に目覚め、大地の下で蟲たちが蠢きだすような、人間的価値から離れた生命の爆発的事態が遂行されることのおぞましさと無縁ではない。人々が楽しげに宴を開く花見は憂鬱で、なんともさみしく響いてくる。

桜の樹の下には死体が埋まっている!
これは梶井基次郎が広めたとされています。梶井基次郎といえば、檸檬爆弾を本屋に置いた空想のテロリストで、これは書店が営業しなくてはならない理由となる。とにかく、桜の樹の下には死体が埋まっている。これは信じていいことだ、だってあんなに見事に咲くなんて信じられないじゃないか、と梶井は続ける。そして不安に、憂鬱に、空虚になっていく。

こんな総毛立つような恐ろしいイメージが桜に、春にあって、震えている間に花は散っていきます。

「誰も桜が立派だなんて言わなかったら僕はきっと大声でそのきれいさを叫んだかもしれない」(宮沢賢治『或る農学生の日誌』)
桜のことは、みんなが知っている。それには個人的な思い入れもあるだろうが、更に大きな社会通念に包まれている。(これは、桜が春にしか咲かないことと関係している)
もしこうしたイメージの支えが全くなかったとしたら、私たちは桜を見てそのあまりの咲きっぷりに、倒れてしまうかもしれない。

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