見出し画像

【毒親日記】不登校の経験

はじめに

※この記事はシリーズ形式にしていましたが、文章が長くなってしまったので大幅に更新しました。マガジンにて更新していますので、ご覧くださると励みになります。


両親にも担任にも辛さは理解されない

他人の目を異常に怖がる

学校には行けないけど、両親の買い物には着いていけました。
本当は1人でも外に出ていきたかったけれど、両親がいないと怖くて外出できませんでした。
「もし外出先でクラスメイトや同級生にあったらどうしよう。あいつ学校には来ないくせに、どこそこのスーパーにはいたぜ」と言われてしまうのが怖かったんです。

自意識過剰ですよね。
私のことなんか誰も何も思ってないよ~って今だと思えますが、当時の私は本気で自分が不特定多数に見られていると思って恐怖を感じていたんです。
すれ違う車の運転手の視線も怖くて、道路に出られなかったんですよ。
思春期特有の症状ですが、本当につらかったのを覚えてます。


宅配を受け取れず叱られる

たまに宅配便や電話が鳴っても怖くて居留守を使いました。
帰宅してきた母親は怒って、「家に居るのにどうして出ないの」と詰められるのですが、「人と会うのが怖い」といくら伝えても理解されませんでした。
母親からも煙たがられたのは深く傷付きました。
インターフォンの音も、電話の回線と回線が繋がる瞬間のカチッと鳴る些細な音さえも恐怖で震えて布団をかぶってやり過ごしました。


生徒想いのお節介おばちゃん先生

新学期で、いわゆる「生徒想いの優しいおばちゃん先生」に担任が変わりました。
不登校の私を気にかけて、毎朝電話をかけてきたんですね。
毎朝ですよ。電話の回線が繋がる音が怖い私に。何度も何度も。
まじで恐怖でしかなかったです。やめてほしかったです。ほんとに。


先生には申し訳ないけど、お節介で大変いい迷惑でした。
母親も初めの数回は電話に出て、私の体調を伝えて、休みの連絡を入れてくれていました。
でも3回目くらいからは「あんたに用があるんだから、あんたが電話に出なさいよ」と電話を無視し続けました。


不登校の過ごし方

そのうちパートに出た母親は電話に気づくこともなくなり、父親は家で寝ていて(この頃は全く仕事していなかったのかもしれない)、私は恐怖で寝ることもできずに布団を被って夜になるのを待っていました。

朝起きて、携帯を見て、ご飯を食べる時だけリビングに出て、すぐに部屋に引きこもって夜更かしをしました。
夜更かししたいわけじゃないけど、朝動かないので眠くならないのです。



3年続けたよ

そんな生活を3年程続けました。
毎日死にたかったんですが、なぜこんなにも死にたいのかは分からなかったです。
「自分がこの世に存在しては周囲に迷惑をかけてしまう」「食費もかかるし、私なんて生きていないほうが良い」と、本気で思い込んでいました。


なので実行しようとしました。


腕を切ろうと思ったよ

秋、自殺未遂をしました。
生きていれば家賃も食費もかかるし、存在してはいけない私はカッターで腕を切って死のうとしました。

サイトでよく調べて、手首だとすぐ血が止まってしまうことを知りました。
血が飛び散っても良いようにゴミ袋を広げて新聞紙を敷いて、その中で切ることで床ににじまないようにしました。

本当は浴室に水を張って決行したかったけど、親にバレて怒られるのが嫌だったので自分の部屋で行うことにしました。
腕の血がよく通る部分にカッターを置き、あとは引くだけだったけど、内心では死ぬのは嫌だったんですねきっと。


痛そうなのでやめました

死ぬ前に友達の声を聴きたかったので「今すぐ電話をしたい」とメールを送りました。
でもすぐに返事が来なくて、やっぱり痛いのは嫌だなあと思って、
涙でぐしゃぐしゃの顔のままゴミ袋や新聞紙を片づけました。

片づけている途中で電話がかかってきて、「すぐ連絡できなくてごめん!どうしたの?」って心配してくれて電話までしてくれました。

この状況を言われても困るだろうからと伝えずに、「大した用事じゃないんだ、ごめん」と伝えませんでしたが、あのときに助けを呼んでいても良かったのかもしれません。
ともかく、私が今も生きてるのはあの友達のおかげでもあります。



今回はここまで。
見てくれてありがとうございました。

つづきます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?