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『戦争語彙集』(オスタップ・スリヴィンスキー:ロバート・キャンベル訳著)

ウクライナがロシアから攻撃を受け始めたのが2022年2月24日。もちろん紛争そのものはずっとあったのだが、大規模な攻撃が、理不尽に開始したというふうに世界は理解した。本書の日本語訳の発行は、それから1年10か月後となる。
 
日本文学者としての訳者は、メディアでもおなじみの人であり、アメリカ出身ではあるが、日本文学についてこの人よりもよく知る日本人は稀有であると言えるであろう。2023年2月、彼はウクライナの詩人とリモートで出会い、6月にウクライナを訪れる。本書の後半55%は、この訳者が綴る、本書の背景のレポートである。
 
前半は、ウクライナで5月に発行されたものの翻訳である。英語訳からの日本語訳がここにあることになるが、丁寧に作業をしているため、訳としての誤りや質の低下はないものと思われる。
 
構成は、77の単語について、恰も国語辞典のような現地での順番に並べた説明が並ぶ、ただそれだけのものである。これは、オスタップさん(レポートの中でそのように呼ばれている)が、ウクライナの避難所などで戦争の体験をインタビューして集めた言葉である。それぞれの人の体験を短い文章でまとめ、それを代表する語を以て、タイトルとする。
 
後で何度か触れられるため、短いものをひとつだけ例示しよう。ある男性の言葉である。
「シャワー 激しい砲撃を浴びている最中のシャワーはマジでおススメしない。すべてのお楽しみは台無しだ。いつも頭をよぎるのは、今もし砲弾を食らったらどうなるの? ってこと。ケツも泡だらけの、むき出しの戦争犠牲者さ。」
 
これは実はちょっと笑える、例外的なものであるかもしれない。たいていはもっとシリアスである。しかし、見る限り決して負の感情にまみれてはいない。かなりヤバい情況のことも、ひとつ突き放して見ている目が合ったり、どこかファンタジックな描き方がしてあったりする。
 
本書の内容や背景については、NHKのクローズアップ現代が詳しく報告している。ウェブサイトでまだ残っていれば、2023年8月23日分として読むことができる。私のようないい加減な者が小さなスペースで述べるものを頼りにすることなく、詳しい内容をお読みくださるほうがいい。キャスターと共に、ロバート・キャンベルさんが出演した番組を、文字起こしした形になっている。すると、お気づきだろうと思うが、本書の出版より四ヶ月も前である。この後本になる、ということで視聴者の誰も、その内容については知らない状態で放送・紹介されているのである。
 
本書は、前半のその「語彙集」を丁寧にお読み戴くとよい。そして、突如始まる、この本ができるまでの経緯や、ウクライナの町の様子を記した後半を辿ってゆくとよい。「語彙集」の幾つかが、誰により、どのような中で語られたか、も分かるものがある。先の「シャワー」もそうである。
 
訳者が捉えた本書の意義は、「言葉」というものの力だ。まさにこれは言葉を集めたものだ。言葉を、言葉によって説明するものだ。戦争は、言葉を無力にする、と思われている。確かにそうかもしれない。だが、この「語彙集」を見る人は、決して、それらの言葉が戦争に負けていないことを知るだろう。言論統制があり、びくびくと言葉を押し隠していたどこかの国とは異なり、自分の感性で、見たまま体験したままを、私の感覚では「自由に」表現している。
 
もしかすると、そんなのは甘い、と思う方もいるだろうが、私はやはり本書の大きな願いや信念というものについて、賛同したいと思う。それは、言葉というものが人々をつなぎ、希望を与えるということだ。語り継ぐことが、未来をつくるのだ。また、それは人と人との「きずな」となるのだ。訳者は、このことに対する愛にも似た大きな感情と信とに胸が膨らみ、止められなくなったに違いない。だからこそ、ぜひこれを訳して、日本全体に知らせたい、と思ったのだろうと推測する。
 
ただ、言葉というテーマのために、訳者自身も本書では中心に置いてはいないと思うが、芸術や文化というものが、さらにその希望を支えるものとして存在することを、私は強く思う。訳者もそのことには触れているが、本書では特別に大きくは強調できなかったようなのだ。
 
限界状況で人が生きるときに、芸術は無用なのか。この戦争の少し前から始まったコロナ禍で、これは特に日本でかなり話題になった。芸術家関係は、コロナ禍で活動ができなくなったケースが多い。しかし、こんな災禍の中で、芸術などあってもなくてもよい、仕事や活動ができなくなっても、仕方がない、というような冷たい声が、かなり起こったのだ。政治家は、パンを配ることに目を奪われた。経済を立て直すためには、サーカスのような役に立たないものを助けるよりも、パンをなんとかするしかない。国内は一時、そうした声が強かった。
 
だが本書の観点は違う。「芸術はつねに人の心と共にあったはず」(p262)だと軽く触れてあるほかにも、人形劇場のエピソードが2箇所ほど書かれている。その人形劇場はシェルターとして機能した。だが、そこに避難してきた人たちは苦悩の中にあった。劇団は人形劇を見せた。子どもたちはそれを見たが、最初はひたすら沈黙していた。心をなくしかけていた。だが、やがて子どもたちも、大人たちも、気づく。こうした劇場での芸術活動で、自分たちの心が癒やされていくことに。人は、生きるか死ぬかという情況の中でも、芸術により、心が穏やかになることができるのである。
 
そして人形劇場の芸術総監督の声として、このようなことを記している。「芸術は重要な問いに対する答えを与えて暮れます。私たちは誰なのか、という問いです。……芸術には「私たちは誰なのか」「なぜここにいるのか」という問いに答える、素晴らしい力があります。……そして、芸術は癒しの力を持っています。……また、安心感も与えてくれます。……芸術には驚くべき可能性があるのです」(p162)
 
もちろん、言葉もこうした力を持っていると言えるだろう。だが、必ずしも言葉として表現されない芸術や文化活動もまた、人の心を助けるのである。人間が、人間らしく生きるようにしてくれるのである。
 
多くの人には伝わらないと思うが、私はこういうことを考えるとき、しばしば「超時空要塞マクロス」を思い起こす。シリーズとなった一作目である。感情や心を失って戦闘機械と化したゼントラーディ軍に、リン・ミンメイの歌を聞かせることによって、地球は戦いに勝利するのだ。敵は、昔自分たちにもあった「文化」というものに襲われ、「心」を取り戻しかけたことにより、力が出せなくなっていったのだ。
 
戦争という、命からがらの中での言葉である。危険を伴わない私たちが、無責任にああだこうだなどと論ずることはできない。勝手なお気楽なことを並べて、知ったような口をきくつもりはない。しかし、本書が伝えたかの地の人々の言葉を、なんとか受け止めたいと思う。それをとやかく評するようなのも、おかしい。ただ右から左へ伝えようと思う。そのとき、もし訳者の捉え方が適切であったとしたら、訳者の願いもまた、私たちは伝えてよいだろうと思う。
 
訳者はまた、日本文学者らしく、遠い東のアジアの国で、こんなことを言った人がいる、と文学作品の一部を、相応しく引用することが何度かあった。宮沢賢治や原民喜、夏目漱石から古今和歌集などである。これはまた、私たち日本人の心を、ウクライナに結びつけるための、ひとつの架け橋のためではなかったか、と私は感じている。そうして私たちは、自分の居場所を、小さな、しかし確実に自分の人生の大きさにとって十分な言葉によって、見出してゆくべきなのである。
 
追伸。NHKで先日、「ETV特集 戦禍に言葉を編む」と題する番組が放送された。そこには、本書のウクライナ語版の原書が映されていた。それぞれの言葉に、魅力的なイラストが寄り添っていた。日本語版には、それが付いていない。岩波書店さん、イラストはだめだったのだろうか。そこが、惜しい。

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