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神らしいふるまいとは何か

私は毎年、心静めるために、一年を通して読む黙想の本を置いている。二三年同じ本を使うと、次は別の本にする。今年は何年ぶりかに『み言葉の放つ光に生かされ』という本を用いている。加藤常昭先生が2000年に著わしている。
 
一昨日は、ローマ書4;24-25から、引かれていた。
 
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
 
ここから、パウロの復活信仰を見出すものだった。その終わりは、次のように結ばれていた。
 
神の義は、神が神らしくすべてのわざを果たしてくださることによって鮮やかに現れる。神が神らしくふるまわれるところで、私たちも人間として正しく生かされる。十字架の死を突き抜けたいのちにおいて、そのみわざが現れたのである。
 
「神が神らしくふるまう」――この言葉に、私はハッとした。つい先日、この言葉に別の本で触れ、心に留まっていたからだ。何の本のどこにあったか、まで覚えていた。
 
私は毎日、本を10~20頁ずつくらい読むようにしている。こうして並行して、一日10冊くらい開いている。その中で、説教に関する、ある特殊な本に、その表現があったのだ。
 
それは『説教塾紀要』第25号である。こういうとお叱りを受けるかもしれないが、この「紀要」を買ったのは、これが初めてであるいいなあと思いながら、私はその世界に入れないような気がして、どうにも遠慮していたのだ。だが今年、加藤先生の歴史的説教を受け、それが今年の「紀要」に掲載されていることが分かったため、迷わず注文したというわけである。
 
説教に関する説教塾の活動のまとめであるが、今回は、「日本の福音派の説教者に学ぶ」という企画があり、そこに私の尊敬する人が2人も取り上げられていたのも、買ってよかったと思える内容だった。が、肝腎の「神が神らしくふるまう」の言葉は、その特集の中ではなかった。
 
山上の説教の説教黙想の中の、5:6からのものである。「義に飢え渇いている人」についての叙述の最初が、次のように始まっていた。
 
義とは正しさの事である。正しさに飢え渇いている人は幸いだと主は言われる。しかしこの正しさとは何だろうか。神の義とは、神の神らしい振る舞いのことだと聞いたことがある。ならば、人の義は、人間の人間らしい振る舞いということになるだろう。人間が、人間本来のあり方をするとき、真の意味で人間らしいあり方をするとき、それが正しさになる。(p187-188)
 
それが自分の中に見出せないとき、その正しさを求める、そこに幸いがあるのだ、というふうにこの後続くのだが、確かにここで見た。「神の神らしい振る舞い」が、「神の義」の意味だ、というようになっていた。
 
「聞いた事がある」というのが、果たしてこの『み言葉の放つ光に生かされ』によるものなのか、他でもよく言われる有名なことであるのか、私には全く分からないが、私はこの「紀要」の箇所が心に残っていたのは確かだ。
 
二つ、理由がある。一つは、「神らしさ」とは何か、ということである。「神らしさ」というからには、誰かが神を外から見て、その主体は神の本来の姿を知っていて、事実神はその本質に相応しい仕方で振舞っていることを認めた、という情況を意味するという可能性がある。その主体は、神の何たるかを知っているのである。
 
だが、私はそれに対しては懐疑的である。否、人間が、神はこうである、と規定してしまってそれでよしとすることは、危険であると思う。そうなると、それは単なるイメージかもしれない。神の本質はこうである、と自分は思う、というだけのことかもしれない。そのとき、対象である神そのものを規定していることにはならない。あくまでもその主体の認識とイメージで計られた姿における、神たるものである。その神のイメージに相応しいと認めた、というような意味で使う言葉が、「神らしさ」ではなかっただろうか。
 
もう一つの引っかかりは、「人間が、人間本来のあり方をするとき、真の意味で人間らしいあり方をするとき」のような言い方だった。「本来」とは何であろうか。私たちは人間本来が何であるか、すっかり知っているのだろうか。それとも、それは認識できないままに、謎ではあるけれども、何かしら神のみぞ知る「人間本来のあり方」というものに合致するように、自らは気づかないままになっていた、というときなのだろうか。また、もう一つ「真の意味」とあるが、いったいそれは何だろうか。私たちは果たして「真の意味」とやらを知っているのだろうか。それとも、これまた人間には不可知でありながら、偶々神の真理に合致した形での「人間らしさ」を実践できたとき、それが正しさとなる、ということなのだろうか。
 
確かにそれは知り得ない。だが、それを信仰するのだ。こうした考え方もあるだろうと思う。私はそうあってほしいと思う。神の意志を知り尽くし、人間の本質を全部把握しているぞ、などという傲慢な態度はとれないが、かといって、神など分からず人間の使命も分かるはずがないのだから私たちには目的も希望もないのだ、と言ってしまうのも空しいことであろう。
 
そこで、私たちはそれを信じるとよいのだ。神の意志を規定はできないが、私は神にこのようにされた信仰的事実をもつが故に、神はこのようなお方であるものと信じる。人間の本質を悟り得たわけではないけれども、私は自分の外から、即ち私が出会った神から、おまえは本当はこうなのだ、ということを突きつけられたのだ、と信じる。自分もまた十字架に死に、キリストにあって新しい命を与えられた者ならば、きっと信じることができる、「あのこと」なのだ。これがいまのところ、私の考えられる精一杯のところである。
 
この信じる内容は、つまり「神らしさ」というものや「人間本来のあり方」というものは、一義的に定められるものではなく、神と出会い命を与えられたそれぞれが、何らかの「信仰」をもっていればよいのではないか。人間には、それしかできないのではないか。
 
私たちは、この信仰を、聖書から与えられる。聖書のあちこちから、その場その時に相応しく、その人らしい生き方を示す神の声が聞こえてくるだろう。それが、それぞれの人に輝きをもたらすだろう。つまり、命を与えることだろう。イエスの十字架を経て与えられた命である。
 
この「神の義」は、加藤先生の本にあったように、「十字架の死を突き抜けたいのちにおいて、そのみわざが現れたのである」というそのままに、私の中に立ち現れたのであった。

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