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『戦争と平和 田中美知太郎 政治・哲学論集』(田中美知太郎・中公文庫)

京都の大学に行きたかったのは、哲学の都だと思ったからだった。そして、田中美知太郎先生への憧れがあったからでもある。プラトンを第一とする予定はなかったが、その研究には、よく分からないまでも、しびれるような感覚を覚えていた。
 
2024年になって、その田中美知太郎の本が出る、という知らせは、私を戸惑わせた。なぜ、いま田中美知太郎なのだろうか。それも、講談社学術文庫ではない。中公文庫からだ。哲学の方面の文庫がないわけではないが、盛んであるとは言えない。どこから本書の出版が実現したか、不思議に思う。
 
それでも、これは予約するような形で、購入に至った。「政治・哲学論集」ということは、プラトン哲学の解説のようなものではないことになる。掲載されたのは、論壇誌が中心のようである。私も知らない名前の雑誌がいくつもある。そうした中に『中央公論』もあったから、そこからの伝手で、中公文庫ということになったのだろうか。
 
戦中のものもあった。但し、出版社が自粛して、当時は印刷されなかった、というものが複数ある。当局を刺激することはよくない、ということだろう。書いた方は堂々と出すつもりだったはずだが、出版社のほうが波を立てない道を選んだのだ。
 
新しくは晩年のものもあるが、戦後間もなくというものがいくつも目につく。やはりそこが面白いかもしれない。
 
戦後、日本は大きく変わった。頑固にかつての思想にこだわる、というのは非難の目で見られたし、なにより格好悪かったことだろう。そうなると、烏合の衆は一斉に、新しい思想に移りゆく。何もかもが変わる。
 
特に、やがて社会主義あるいは共産主義と呼ぶべきか分からないが、そちらが次の世界の姿として理想の制度のように見え始めた者たちがいた。それまで統制されていた反動かもしれない。だが、先行きの見えない中で、それもひとつの選択肢であったということは、なるほど理解できる。北朝鮮が理想郷のように見えるグループもいたのである。
 
ブームである。田中美知太郎は、この傾向に、警鐘を鳴らす。
 
解説からすると、思想的には保守に属するのだというが、私は田中美知太郎のそちらの方面にはたいへん疎かったので、これまであまり関心をもって見てはいなかった。確かに、本書で論じられたものを見ると、それがよく分かった。それは、表向きにというだけではなく、言葉の端端に、それが滲み出てくる、という感じだった。
 
だが、自民党が新しいことをやりたがるような口調や、社会主義をお祭り騒ぎのように喜ぶ輩など、小気味よい言葉は、そんじょそこらの論者ではない。皮肉なのか、エスプリなのか、私には政治の奥も分からねば、当時の状況や空気も分からない。かといって、ここでの論評が、揶揄したようなものに終わっているわけではないであって、やはりこれは正攻法であるに違いない。
 
そして、甘い理想を語るだけでは終わらない。戦争反対、と叫ぶようなことを単純に述べるわけではない。それは、ギリシアの政治を知っているからだ。ギリシアの歴史が、現代の日本を考えるのに生きてくる。政治というものの本質、人間のものの考え方が、さほど変わるものではないからだ。
 
戦後政治について考えるばかりではなく、古代ギリシアの政治からも学ぶ。私たちの社会の政治的関心についても、ぐいぐいと問われる。そこにあるのは半世紀前、否それ以上昔の出来事だからいまとは関係がない、そんなふうに思いこむ者がいたら、危険であると思う。いままた、むくむくと気味悪く生まれ、成長しようとしている何者かが、それを喜ぶことになるからだ。
 
いまがすべてだと考えるのではなく、本書を辿ってみるといい。冷や水を浴びせられて、目を覚ますことができるかもしれない。せめて、それが遅すぎないうちに。

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