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#2_こころの透明性

マインドフルネス、という概念がもてはやされたのが2010年代。
まだ10年とそこらしか経ってないのに、これだけ浸透したのはすごい進化だなと思う。
(厳密には日本に入ってきたのが、だけど。Googleがマインドフルネス研修を開発したのが2007年だったかな)

元々マインドフルネスは日本の禅の精神から生まれているとされるから、逆輸入なのかもしれないけど。

この10年で、マインドフルネス≒精神的健康の意味合いがすごい変化を遂げたなと思う。

僕が子供の時は、精神的健康が損なわれていると聞くと、
それこそ鬱病とかそっち系のイメージ。
「何か重篤な疾患があるのかな?」とか、もっと大変なものだったはず

秋葉原の無差別殺傷事件。
被告の精神状態がまともではなかったことを様々な報道で見た
当時は精神的に不安定な人というのは、あのような人を指しているのだと記憶してた。

でも今、周りを見てみると僕の同世代、あるいは下の世代って
「チルい」「ととのった」とか、「ちょっと精神的に落ち込んでるわ〜」とか。
自分のこころの状態をさらっと話すようになったなって。

これって結構大きな変化だと思うと同時に、
すごい怖いことだなと思ってて。

今の世の中、確かに精神的な健康ってものすごい重要だと思う。
経済低迷、既得権益への不信感、災害への不安とか
ストレス社会って言われるのがよくわかる
(そこに生きてる僕らってそれだけでも大したもんよね)

だからみんなストレスの対処・予防に一生懸命。
それがマインドフルネスっていう概念が浸透した理由。
藁にもすがる思いで、みんな何かに救いを求めざるを得ない世の中。

全然いいと思う。だってそれで救われる人もいるし、
ノンストレスで過ごせることってそれだけで素敵なこと

じゃあ何が怖いのか?っていうと
ここからは完全な僕の主観。

こころが死にかけている人の、SOSが見えにくくなってない?


理由はこれだけ。ほんとにこれだけなんだよね。
去年僕も精神疾患になったからこその物言いだけど。

みんな、当たり前のようにこころの健康を大事にしてる。
それはとてもいいことなんだけど、
みんながみんな、日常のほんのささいな出来事を対象に
こころの健康の上下を測るようになってる

例えば今日朝早起きして、近所を散歩した!

とか

週末友達とサウナ行った!ととのった〜!

とかね(ばかにしてないよ)
もちろん僕もその一人だもの。

だけど、みんながささいな日常の変化として
こころの健康を語ってしまったら

本当に苦しんでる人の助けに誰が気付けるの?って。
誰がその人の助けを受け止められるの?って。

そう思ってしまったわけです。

みんなが自分のこころをさらっと話すようになったからといって
みんなのこころの透明性が上がってるわけじゃない
本当に悩んでいる人を見つけにくくなってしまってないか。

みんな対応が上手くなっただけで
本当に悩む人がいなくなったわけじゃないのに。
ただ見えなくなっているだけなんだと思う。

こころの健康が気軽な話題になっているからこそ
誰かのSOSに気づかないといけない、気づけるようにならないといけない
みんなが気軽に話すからこそ
誰かが助けを求めにくくなってるのかもしれない

僕個人の超主観な考えだけど
そう感じる出来事が最近あったので
色々と考えてしまったのでした。終わり。


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