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ホームスクールをあたりまえに生きてる

 ひさかたぶりのnote投稿です。note機能も新しくなり、ドキドキです。

 『ホームスクールをあたりまえに生きてる』エッセイ、はじめます。


 数年前のとある陽気な日、よく行くコンビニのレジ前で、よく会うスタッフさんに「学校は?」と訊かれたんですね。何を問われているのか、私の頭は本気で理解にとまどってしまったんです。正直言うと、お昼時でちょっと寝ぼけていましたので、こんな風な返事が私の口から飛び出しました。

 (?)
 「”うちは学校”じゃないです」(ニコっ)。

 「うちは学校じゃないです」。ちなみに、意味合いは「うちは学校を経営していません」の意味でした。なんなら「だから、特に今日、授業を開講しているわけではありませんよ」と、(親切に教えて差し上げました)くらいの気持ちだったんですよね。
 あたまに(?)がついてますけど、私の表情がそれだったんですね。本気で。嫌味じゃありません。正直に言って、「なにをおっしゃっているのかしら?」って感覚でしたので、誠意を持って答えたんですよ。
 いやいや、今ならわかります。はい、そうですよね。…そうですよねぇ。

 これって、たぶん(いや、全然たぶんじゃないんですけども)「(お子さんは)学校は行ってないの?」って意味の質問なんでしょうね。いつも連れ歩いている子が、そのとき小学生だったんじゃないかな。


 また、それよりさらに数年前のことです。
 児童館にいました。当時の、我が家のこどもたちは小学生3人と乳幼児くらいの組み合わせでしたでしょうか。その児童館は校区外にありましたが、乳幼児が親と一緒に過ごして遊べる部屋と、学童児が身体を動かして遊べる部屋とで別れていましたから、キョウダイそろって連れていくのにとてもよい場所でした。館長さんは元校長先生で、後には無料学習タイムを放課後の時間帯に開くなど、児童生徒の居場所にもなっていたと記憶しています。

 そこで、赤ちゃんを連れているママさんに訊ねられました。
「学校は、今日はお休み(休校日)ですか?」。

 平日昼間だったので、開校記念日かなにかでお休みなのかと思われたんですね。

「いいえ~。ウチは、今日は児童館で過ごすことにしたので、こっちに来てます。学校は今日も授業をしてますよ。(ニッコリ)」

 すると、そのママさんは、パ~っと明るい表情になりまして。
「へぇ、そういうのがあるんですね!校外学習みたいなものですか?学校も変わったんですね!今は、いろいろ教育の方法があるんですね。」

 教育のいい時代になりましたねぇ、という感じで全肯定されますね。


 また、とある5月の朝の登校時間に、こんな一場面がありました。

 私と子が、気持ちよく晴れた朝のまぶしい時間に、街を闊歩しています。ちょうどそこは通学路だったらしく、旗振り当番を終えて帰ろうとしていたパパさんが向こうから歩いてくるのと遭遇したのでした。

「あれ?学校はどうしました?」(非常に丁寧な物言いが好印象でした。)

 勢いよく闊歩していたそのままリズムでわたしたちは答えていました。
「ホームスクールでっす!」。すると「うぇ?え?お、おぅ(そうなんだ)」と、(そういうものか。そっか、そうだよな)みたいな表情で通り過ぎていかれました。


 わたしたちにとって、その日、どのように1日を過ごすかは、自分自身で決定することですし、一市民として、街中の教育資源を大いに活用する権利を持っていることも知っています。
 今日という日をどのように生きるか、その決定権を行使すること。
 なにを目にし、なにを耳にいれ、なにを思い、感じ、考えるのか、そのことに正解がないこと。
 誰に意図された計画でもなく、その日の偶然のなかで、なににどのような作用があれば、何が起こるのかを、自分で確かめ、実感を得ること。
 それらが、ひとりひとりのなかに種まきされていく一日を過ごすことが、わたしたちにとってのあたりまえの過ごし方なんですね。
 それをホームスクールと呼ぶのは、それがホームスクールのやりかただということはあるわけもなく、むしろ、わたしたち自身は「ホームスクールをしている」感覚を持ちません。ただ、対外的に「こどもは学校にいくものの」という一般的な価値観念と対比された説明用語であるに過ぎません。相手に分かりやすく、伝わりやすい言葉の手段に用いるのが、「ホームスクール」という単語です。


 オルタナティブな暮らし方をする家庭が、世間から排除されたり、非難される場面は、どのようにして起こるのかというと、あくまで私の見た限りの話ではありますが、共通点は見えてきます。
 オルタナティブなスタイルを理解しない人を責める気持ちや、なんなら見下す態度を持つことがあることです。「理解して」と口では言いながら、(理解できるわけがない)(理解されたくない)本音が見え隠れするので、どちらかといえば意識的に周囲と断絶したいと思って行動しているのではという気配すらあります。それで反感を買っているような構図です。そして伝統的なメインストリームで生きている人を、理解しようとも思わない態度でいることも目立ちます。本当のところでは、自分たちもそのような場所で生きてきたのですから、(知っている・分かっている)のにも関わらず、意識を変革できない・しないことに対して、腹立たしく思う理由はなんでしょうか。自分を受け容れてくれないこと、承認してくれないことへの不満なのではないかと感じます。
 そもそも理解など必要ないものですね。相手の立場にたてば(そうなるよね。)と分かればよいだけのことですね。
 あたりまえは人それぞれです。ひとりひとり、その人が経験してきたものによって作られた結果です。シンプルに、たったそれだけのことです。
 妬みを買うパターンもあります。理由はいろいろです。社会的地位を脅かされそうだという妬み、うらやましいという嫉み、いろいろです。そればかりは、わたしは「避ける・遠ざかる」以外の選択肢は持ってきませんでした。なにせ感情そのものですから、他人の感情をコントロールすることは非常に難しいんじゃないかなと思います。幼児の感情爆発のようなものですから。そういうときは「新天地を探すきっかけとなる出来事だった」とだけとらえました。

 わたしたちは、なにもかもを知ることは難しいことです。理解することも難しいでしょう。でも、「いろいろ在るぞ」と、分かることはとても大切だと思っています。知らないこと、一生見聞きする機会もないことは、たくさんあります。でも、確かに存在しているという事実は忘れないでいたいものですよね。

 どこかに居る誰か、どこかに在る生き方。
 どれも尊重する命の在り方。

 あなたに出会えてよかった
 そう思うのは、私の心です。

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