見出し画像

【#4】燕三条地域における先天的要素の紐解き(気候・地形・食・歴史など)

さて、燕三条は世界有数の金属加工産業集積地で、産地型産業クラスターとして持続的発展を果たしている地域であることは、前回までの記事で述べてきました。
前回記事はコチラ↓↓

近代において世界的な金属加工産業クラスターとして注目されるようになった燕三条地域ですが、今回はこの燕三条という地域がどのような風土や気候に育まれ、どのような恩恵、災い、営み、歴史を経て現代に至るのか、その「先天的要素」を紐解いていきたいと思います。

産地型産業クラスターにおける先天的要素の紐解きの必要性

さて、まずは、燕三条をはじめとする産地型産業クラスターにおいて、その地域が元来有する「先天的要素」の紐解きがなぜ必要なのでしょうか?その問いに答えていきたいと思います。

① 構成員のほとんどの人達が、その地域出身であるため

大企業の構成員(社員)は、一般的に様々な地域の出身者の集合体です。それに対し、産地型産業クラスターに関わる構成員の大半は、同一地域に生まれ、そこで育ってきた人の集合体といえます。そのため、その地域の歴史、地形、気候、食といった先天的要素や、それらにより形成される地域ならではの人々の気質が、産地型産業クラスターの発展の成功要因や経営システムに色濃く反映されているのではないかと考えられるからです。

②産地型産業クラスターならではの経営システムの違いの補完をしている可能性

また、産地型産業クラスターは、1つの企業体とは違って、使命・ビジョン・戦略・ガバナンスの不在という経営システムの違いがあると前記事にて述べました。
その違いを補完し、サステナブル経営を実現させる要因が、地域に息づく先天的要素に関係しているのではないかという仮説があります。

これら2点から、燕三条地域の先天的要素の紐解きが必要であると考えました。

燕三条地域の先天的要素

地域の先天的要素の全体像

地域産業や燕市と三条市の関係性、そして人々の気質に影響を与えているのは「自然環境がまずあって、それが地域へ恩恵や災いをもたらし、人々の営みにつながっていく」長年の有機的なつながりが存在するのではないかと考えました。
そういった意味で、それらを構成する「気候」「地形」「食」「水運」「洪水/治水」「祭」「歴史(統治史)」の7つの視点で、燕三条地域の先天的要素を紐解いてみようと思います。

地域の先天的要素の全体像

①気候

新潟は、本州日本海側のほぼ中央に位置し、特に冬場の寒さは厳しく、豪雪や短い日照時間といった気象条件と共存しています。冬は毎日の雪かき、屋根からの雪下ろし、雪の中の外出の大変さなど、冬の生活は不便が多くなります。

新潟は毎年冬に厳しい豪雪に見舞われる
https://egoclip.net/2021/01/post-1033/

また、日照時間が短いため光を浴びる時間が短くなり、体内のホルモンのバランスが崩れるなどして、うつ病を罹患する人が多いとされています。

新潟の年間日照時間 冬場は極端に日照時間が短い
(新潟市HPより)

このような生活の中で、新潟をはじめとする北陸地域の人々には、
困難・苦難に対する我慢強さ、忍耐力が培われていると考えられます。また豪雪地帯での生活は、共同の雪かきや立ち往生時の対応など、近隣住民同士の助け合いが不可欠であることから、地域で協力してやっていくことが当たり前というマインドも育まれていると考えられます。

一方で、夏場は暑く晴天が続き、四季の変化が非常に豊かな気候といえます。はっきりした四季の変化があることで、その時々の季節の花々や景色を楽しむことができ、生き甲斐を感じ、地元への愛の深さが地域の人々に根付いたと考えられます。

新潟の豊かな四季
https://collection.shiawasehome-reuse.com/column/season

②地形

新潟は、海、河川、山に特徴があります。日本海に隣接する長い海岸線をもち、信濃川や阿賀野川などの大河が作り上げた肥沃な大地に恵まれています。一方で内陸側では急峻な山岳地に囲まれています。特に重要なのは、
燕三条と呼ばれる「燕市」と「三条市」は信濃川によって分断されている点です。

新潟は海・山・川が形づくった肥沃な大地
信濃川を隔てて燕と三条は位置している

これらの地形により、豊かな食文化に恵まれ、人とモノを運ぶ水運が発達する一方で、信濃川の洪水という災いを頻繁にもたらし、200年に及ぶ治水事業に苦闘する歴史が刻まれました。このように、新潟の地形は地域の恩恵・災いに多大な影響を及ぼしました。
 また、信濃川という大河川が川の両岸に位置する燕と三条を地域的に分断したため、燕と三条は距離的に近接しながら、別々の気質を育む要因となりました。

③食

新潟は日本一の米どころで、日本酒の銘柄も数多くあります。また、日本海の海の幸、山の幸など、食べ物が非常に豊富であり、生きていくには困らない土地柄であります。

新潟は食資源が豊富
日本一の米どころ、魚介類・日本酒も豊富

この豊富な食資源によって、食べ物だけは困らない土地柄のため、食料の奪い合いとは無縁で、この土地の人々には「競争意識」が根付かなかったという仮説が生じます。また、食べ物の恩恵を幼いころから受けているため、地元への愛が深くなり、またおいしい食材やお酒を囲んで人が集まり語らう機会を好む風習があり、これらの要因から「人々の横のつながり」が生まれやすかったと考えます。

④水運

海に面していることで、関西・中国・九州地方から、金属加工の原料である鉄や金銀を安く調達できました。
これには江戸時代中期から明治時代まで日本の長距離物流の根幹を担った、北前船の航路開発が影響しています。この航路は北海道から日本海沿岸を南下して下関を折り返し、瀬戸内海を経て大阪・京都に通じるルートで、北海道・東北・北陸の米や酒など食料品を京都・大阪など西へ運ぶことを目的としていました。
一方で、食料品を運び終えた後の帰路において、船荷が空だと、荒れる日本海での航海は危険を伴うことになります。そこで、帰路に立ち寄る中国地域で金属加工の原材料となる出雲の玉鋼のような重量物を底荷に積み込むことで、荒れる日本海での安定した航海と原材料の調達の両方を叶えることができました。

北前船は江戸~明治時代の長距離物流を支えた
https://www.amanohashidate.jp/kitamaebune/
北前船の航路
くだりの航路で、金属加工の原材料となる出雲の玉鋼などを運んだ

また、荒川・阿賀野川・信濃川といった大きな河川のおかげで、東北・信州・関東と広く製品を運び、販売することが可能になり、人とモノと情報の交流が盛んになりました。こうして市場ニーズの収集を行うことができたため、市場機会の発見、新製品のいち早い投入、また土地土地のニーズに合わせたカスタマイズ生産が可能になり、金属産業が大きく発展することとなりました。
こういった商流を押さえた三条は、情報を多く入手できたため、商人気質の醸成につながりました。

荒川・阿賀野川・信濃川の水運を活かして、全国に販路を開拓できた

⑤信濃川洪水/治水

日本一の大河・信濃川は、昔から燕三条に豊かな恵みをもたらすと同時に、3年に1度氾濫を繰り返し、大規模な水害により人々を苦しめるものでした。
そんな信濃川の洪水を日本海へ流し出すことで、人々を水害の苦しみから解き放とうと考えられたのが、大河津分水の建設です。
1716年(江戸時代)に最初に請願されたものの、予算の問題や地すべりの危険性、反対派による一揆で何度も中止され、請願、頓挫を繰り返しました。

信濃川の氾濫による水害にたびたび見舞われた燕三条地域
明治29(1896)年に発生した大水害「横田切れ」は甚大な被害を及ぼした
https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/yokotagire120/yokotagire120.html
明治29(1896)年の横田切れによる水没地域(ピンク色)
広範な地域が水につかった

大河津分水工事の歴史を展示する大河津分水資料館へのヒヤリングによると、長い月日の中で、時代や家柄を超えて、この取り組みを続ける人がい続けたのは全国的にもまれであったといいます。そこには「洪水を何とかしないと未来がない」という共通の想い、目標があったことが大きいと考えられます。
そして、1907(明治40年)年から約15年、延べ1000万人もの人々が従事し1922年に完成、最初の請願から200年もの月日を要した世紀の大事業でした。


大河津分水工事は、当時東洋一といわれた大治水工事だった
https://tsubame-kankou.jp/seeing/about_ookoudubunsui/
現在の大河津分水の航空写真
左側が大河津分水路、右側は本来の信濃川
https://www.city.niigata.lg.jp/minami/kohoshi/minamikaze/r04/minami_1016/minami_373_1.html

この背景から言えることは、洪水に何度も見舞われた歴史から、農業に変わる副業としての金属産業の誕生につながったことです。生きるために必要な事業転換だったといえます。

そして、治水後は、湿田が乾田化され、機械化の流れも相まって、米の収穫量が2~3倍に増え、越後平野は日本有数の米どころに発展しました。河川があることで迂回していた線路も迂回せずに設置できるなど交通網の発達にも寄与し、この地の人口増と発展に大きく貢献したと考えられます。

信濃川の洪水に苦労したこと、そして世紀の大事業として治水をなしえた成功体験は、今も燕三条の学校教育の中で伝えられ、燕市の人に「困難があっても自分の手で何とか乗り越えていく」精神となって代々受け継がれています。時代や家柄を超えて地域一丸となり成し遂げた経験は、現代の「横のつながり」を重視する気質の醸成にも寄与していると考えられます。

⑥祭

燕市、三条市それぞれに地域の祭が存在します。これらは地域産業の隆盛を祈り、産業の担い手をいたわり鼓舞する、「地域のコミュニティ」としての役割を担っています。燕市と三条市それぞれいくつかの祭が存在するが、特に地域の住民同士のつながりを作り、産業の担い手である職人が関係する祭に触れたいと思います。

燕市:萬燈(まんどう)祭
5月中旬の土日に行われるこの祭は 地域のコミュニティとしての役割を担っています。もともとは神社は関係なく地元の人々が自発的に始めた祭で、伊勢祭や祇園祭を真似して作られたといいます。目的は職人のモチベーションを上げる職人のための祭だったそうです。長い冬が終わった5月に、金属産業を支える担い手たちが息抜きをする場でした。

萬燈(まんどう)祭

三条市:三条祭・献灯祭
三条祭りは毎年5月15日に行われる。1822年(文政5)村上藩主内藤信敦が京都所司代となったのを三条郷民が祝って10万石格式の行列を模して神輿渡御を行ったのがその始まりとされます。
天狗を務める男性は、精進潔斎といって、肉類を食べず、女性に触れず、酒を飲まずに心と体を清めることが条件と、格式と伝統のある祭です。

三条祭り

また1月14日に八幡宮金山神社で行われる献灯祭があります。
金山神社は三条の鍛冶職人たちが建立した神社で、金属産業の隆盛を祈念しています。奉納されたろうそくは、若衆会の人たちが交代で翌朝までろうそくの番をする習わしがあります。

献灯祭

これら祭の存在は、昔から地域のコミュニティの発展の一助を担っている重要な存在であり、今でも祭を通じて地域の経営者同士が繋がり、結束を深め「地域の絆」を醸成していると言えます。5月に行われるのは長く厳しい冬を越し、田植えの時期を終えた時期で、地域の人々にとって1年の楽しみな行事となっており、地域の人々にとって、祭は血が熱くなる生き甲斐となる貴重な存在となっています。

⑦歴史(統治史)

ここまで述べた燕市と三条市の自然とその恩恵災いの違いは、燕市と三条市の統治史に大きな違いをもたらしました。

①燕市
前項で信濃川の洪水があったと説明した通り、幾度となく襲われた洪水によりこの地で富を築き続けるのは困難だったため権力者が誕生せず、地域を統括する機能が育ちませんでした。
結果、住民自身が自分事として、住民同士が団結して、危機を乗り越える文化が根付きました。金属産業が幾度もの外部環境変化にさらされた際にも、製品を変え、戦う場を変え生き残り、発展してきたのは、この危機を乗り越える文化があったからこそと考えられます。

横田切れの様子を表す写真

②三条市
譜代・親藩大名が統治する村上藩の管轄にあり、幕府が管轄する出雲崎代官所と距離的・関係的に近い立ち位置でした。藩が存在した時代において、藩を超えて商売をするのは非常に困難で、通行手形が必要だったとされます。村上藩が管轄していた三条地域は、同藩の強い加護を受け、新潟一帯の販売を独占できる強い立場にありました。

当時の村上藩だった村 三条市一帯は村上藩の管轄だった

結果、通商として儲けていたため、三条市には商人気質が根付いたと考えられます。そして商人として全国津々浦々回ることで、地域ごとのニーズを拾い、地域ごとにカスタマイズした製品開発が可能になりました。


さてここまで、燕三条の地に息づく先天的要素を紐解いてきました。これらの要素が現代の燕市・三条市の人々の気質にどのような影響を及ぼしたのかについて、次の記事でまとめていきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?