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在宅医療を始めるまでの物語①

「在宅医療」という選択肢があることを知ってほしい

最近では、「在宅医療」という言葉自体を聞いたことがある人は、増えているのではないでしょうか。
書店へ行けば、在宅医療にまつわる一般書もたくさん発刊されていますし、在宅死をテーマにした映画なども作られています。社会の高齢化が急速に進むなかで、年を取ったとき、あるいは大きい病気をしたときに、どこでどういう医療を受けたいか、どのように療養生活を送りたいかなどは、多くの人にとって身近な問題になっていると思います。

しかしながら、在宅医療の現場で私たちが直面しているのは、「まだまだ在宅医療を知らない人が多い」という現実です。在宅医療という言葉はなんとなく聞いたことがあるけれど、実際にはどんなものか知らないし、どのように始めればいいのかもわからない。そういう方々が少なくないと感じています。
そのために、本当は医療・介護のサポートが必要なのにもかかわらず、在宅医療に結びついておらず、生活自体が立ち行かなくなるギリギリの状態で暮らしている高齢者は珍しくありません。
特に高齢世代の人は、この10 年余りで広まってきた在宅医療や在宅で受けられる介護サービスをよく知らない方も多いようです。
さらに、戦後の日本を支えてきた今の70 代、80 代の方々は「子どもには迷惑を掛けたくない」とか、「自分の体が動くうちは人の世話になりたくない」といった気持ちも強くあります。
その結果、周りに相談をしないまま、心身の健康を維持できなくなり、警察や役所など行政機関からうちのような在宅医療クリニックに支援の依頼がくることもよくあります。

ですから、ある程度の年齢になって健康や体力に不安を覚えるようになったら、早めに在宅医療クリニックに相談されることをおすすめします。特に持病がなくても、高齢になれば誰でも耳が遠くなったり、歩行が不安定になったり、物忘れが出てきたりします。
高齢者本人が相談に行くのが難しいときは、息子さん、娘さんからクリニックなどに連絡していただいてもいいと思います。早い段階で在宅医療チームと関係をつくっておけば、その時々に応じた支援を受けられます。

また、病院で通院・入院治療を受けていた人では、退院時などに病院の医師や担当ケアマネジャーから、在宅医療を紹介されることがあると思います。当クリニックでも、地域の医師やケアマネジャーからの紹介で、在宅医療に入る人が多数を占めています。そうした地域医療・介護の専門家から紹介されたときは、ぜひ在宅医療を検討してほしいと思います。
「在宅医療は終末期の人が受けるもの」といった誤ったイメージから、利用を躊躇する人もいるようですが、決してそうではありません。患者さんや要介護の人が自宅で安心して生活できるよう医療・介護で支援を行っていくのが、在宅医療なのです。

Aさんは、80 代の男性です。妻と別れて子どもも独立したあとは、戸建ての自宅で長い間1 人暮らしをされていました。特に大きな持病はなく、1 人で自立した生活をしていました。
当クリニックのある静岡県では、70 歳以上の人を対象に、デイサービス(通所介護)を利用した介護予防教室を実施しています。Aさんも時々、このデイサービスに参加していましたが、ある頃から姿を見せなくなったそうです。
1 人暮らしのA さんがデイサービスに来なくなって、1カ月以上が経った頃。心配になったデイサービスの仲間から、民生委員に「心配だから様子を見てきてほしい」と依頼がありました。
そこで、地域の民生委員がAさん宅を訪れると、やせ細ったAさんが布団に寝たきりになっているのを発見しました。声を掛けると薄く意識はあるものの、尿も便もその場に垂れ流しという、変わり果てた姿だったそうです。

驚いた民生委員から、東京に住んでいる息子さんに連絡がいき、息子さんの了解を得て、私たちのクリニックが支援に入ることになりました。
あとでAさんに聞くところによると、「ある日、急に動けなくなってしまった」と話していました。おそらく軽い脳梗塞ではないかと思いますが、急に体を思うように動かせなくなり、最初の頃は、這うようにしてトイレに行ったり、食事をしたりしていたそうです。
そのうちに、這って移動することもできなくなり、食べ物も食べられない、水分もほとんどとれないという状態で、1カ月近くも寝ていたそうです。
一時期、Aさんの友人が軽食や飲み物などを枕元に届けたこともあるようですが、一歩間違えれば本当に命を落としかねない、非常に危険な状態でした。
また最初の診察に同席してもらった息子さんと話をしたところ、2カ月ほど前にAさんのところへ様子を見に来たときは、ふつうに問題なく生活をしていて、会話もおかしなところは特になかったそうです。息子さんは「大きな病気もなく年の割には元気だと思っていたので、こんなことになるとは、まったく想像しなかった」と青ざめた顔で話されていました。

私たちはAさんに対し、定期訪問診療を計画し、介護保険サービスで家事などの生活支援を行っていくことにしました。
医療面では脱水と栄養失調が進んでいたため、点滴をして栄養補給をするところからスタートしました。
食べ物を咀嚼したり消化したりする機能も落ちていましたが、最初は流動食から始め、少しずつ通常の食事をとれるように訓練していきました。同時に全身の筋力が衰え、関節が固まるといった症状もありましたので、身体機能の回復のためのリハビリも段階的に進めていきました。

介護保険サービスでは、1 人暮らしのAさんのために訪問介護のヘルパーが毎日入り、買い物や食事の用意、食事介助、トイレの介助などの支援をしました。食事をしっかりとれるようになってくると、やはり体力の回復にもスピードがついてきます。こうして在宅医療チームで継続的に支援をしていくなかで、Aさんは少しずつ体力と自信を取り戻していき、寝たきりで発見されてから10カ月後には、1 人で歩いて買い物に行けるくらいまで回復されました。

現在も、私たちはAさん宅に月1 回定期訪問診療をしています。
私たちが訪ねると、Aさんはいつも人懐こい笑顔を浮かべ、「あのと
きは本当に危なかった。先生たちは命の恩人だ」と、私たちに何度
も感謝の言葉を伝えてくださいます。


【解説!】

要介護になるきっかけで多いのが、脳卒中

ある程度の年齢になると、Aさんのようにある日を境に急にガクッと状態が変わってしまうことがあります。
きっかけとして多いのは、Aさんも疑われた脳梗塞、脳出血といった脳血管疾患(脳卒中)です。脳卒中は、認知症に続いて高齢者が要介護になる原因の第2 位となっています。
脳卒中というと、急に意識を失って倒れるイメージがありますがそうした劇的な症状がいつも現れるわけではありません。脳で小さい梗塞(血管の詰まり)が起きているのに、本人や周りの人が気づかないことも意外に多くあります。
また一過性脳虚血発作といって、一時的に脳の血管が詰まって体に異変が生じても、しばらく経つと症状が消えてしまうことがあります。そのため「たいしたことはない」と考えてしまい、受診しないでいるうちに重篤な状態になる例もあります。
脳卒中が疑われる典型的な症状は、次の3つです。高齢者自身や周りの人が気づいたときは、すぐに受診をしてください。

① 顔の麻痺
顔の片方がだらんと下がったり、笑うとゆがんだりします。飲み物
を飲むときに口をうまく動かせず、こぼしてしまうこともあります。
② 腕の麻痺
片側の腕に力が入らなかったり、しびれたりします。両腕を肩の高
さでまっすぐ前に伸ばすと、片腕だけ下がってしまいます。
③ 言葉の障害
短い文をしゃべろうとしても言葉が出てこない、ろれつが回らない
なども脳梗塞(脳卒中)の症状の1つです。


高齢者は、ちょっとしたことで体力が落ちてしまう

脳梗塞のような大きい病気でなくても、油断はできません。高齢者では、風邪を引いて寝込んでいた、膝や足首を傷めて外出を控えていたなど、ちょっとしたきっかけで筋力・体力が落ちて「フレイル(虚弱)」と呼ばれる状態に陥り、次第に要介護の状態に移行していくことがよくあります。

最近、高齢期の健康維持や介護予防には、このフレイルを防ぐことが非常に重要とされています。
一度寝込むなどして筋力が低下すると、風邪は治っても買い物に出たり、家事で体を動かしたりするのがおっくうになります。体を動かさないので食欲もわかず、食事も簡素なものになりがちです。すると、栄養不足によってますます筋肉が少なくなり、衰えがいっそう進む─という悪循環に陥ってしまうからです。
今回の新型コロナウイルス感染症の流行でも、感染予防で外出を控えることで中高年を中心にフレイルの人が増えており、今後、要介護になる人が急増するだろうと懸念されています。
さらにAさんのように、高齢者は一度体力が大きく低下してしまうと、自力で回復するのは困難なことが少なくありません。


在宅医療は、「予防医療」にも強い

さらに高齢者は、客観的には明らかに支援が必要な状態でも、自分からはSOS を出せないことが多いのです。私たちの経験としても、お年寄りが自分で「足腰が弱り、物忘れの不安も出てきたから、在宅医療で見守ってほしい」と訴えてくることはほぼありません。
おそらく本人は、年を取って体力が落ちたり、具合の悪いところが増えたりするのは当然と思っているのでしょう。また、人さまに迷惑を掛けたくないという意識もあり、ずいぶん前から支援が必要になっていたのに、何もしないまま時間が過ぎ、ひどく状態を悪化させてしまうケースは珍しくありません。

近年は、高齢者の1 人暮らしや、高齢夫婦だけの世帯が圧倒的に多くなっています。やはり親がある程度の年齢になったら、息子さん、娘さんの世代が、いざというときに相談できる地域の在宅医療クリニックを探しておくと安心だと思います。
在宅医療は、実は「予防医療」も得意としています。今より体力低下が進んだり、病気が悪くなったりしないように治療や生活の指導をすることができます。「うちの親は、今はなんとか暮らしているから、まだ相談するのは早い」と思わず、気軽に連絡をしてほしいと思います。


【事例1 で知ってほしいポイント】

● 高齢者が要介護になる原因で多いのが、脳卒中。顔や腕の片側の麻痺、言葉がうまく出ないなどの兆候に気づいたら、できるだけ早期に受診をする。
● 高齢者は、風邪で寝込むなどちょっとしたことで筋力、体力が低下し「フレイル(虚弱)」になりやすい。フレイルから、要介護に移行することも多い。
● 高齢者は、一度体力が大きく低下してしまうと、自力で回復するのは困難なことが多い。
● 高齢世代は、支援が必要なのに自分からSOS を出さない、出せないことが多い。息子・娘など、周りの人が早めに相談できる在宅医療クリニックを探しておくと安心。
● 今より体力低下が進んだり、病気が悪くなったりしないための「予防医療」として、在宅医療を活用することもできる。


引用:
『事例でわかる! 家族のための「在宅医療」読本』
著者:内田貞輔(医療法人社団貞栄会 理事長)
発売日:2021年6月1日
出版社:幻冬舎