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在宅医療を始めるまでの物語②

B さんの家庭は、70 代の夫婦2 人暮らしです。
B さんは30 代の頃に精神疾患を発症。夫と結婚してからは、良いとき・悪いときの波はありましたが、夫の理解もあり、全体的にはおおむね状態は落ちついていました。そのなかで一人息子を育て、無事に成人させています。40 代の息子さんは独立し、今は隣県で仕事をしています。

60 代の終わり頃から、B さんは認知症の症状が現れるようになったそうです。最初の頃は、物忘れのような症状が中心でしたが、次第に「人に物やお金を盗られた」「近所の人が勝手に家に入り、持っていった」などの妄想も強くなっていきました。
そのうちに、自宅の周りで偶然近所の人を見かけると、「泥棒しただろう、警察に電話する」といった暴言をぶつけるようになってしまいました。
さらに夫が、B さんに認知症の病院を受診しようと促しても、「自分は病気ではない」「病院は何をされるかわからないから嫌だ」と強く拒否を示します。介護保険サービスも本人が嫌がって、まったく利用していないとのこと。ほとほと困り果てた夫から、当クリニックに相談がありました。

夫の話から、B さんを連れて受診してもらうのは無理だと判断し、まず当クリニックの医療連携室のスタッフが、B さん宅を訪問することにしました。スタッフが訪れると、B さんは「なぜ来たのか、帰れ」と案の定、強い拒否を示します。当初の数回は、訪問しても会うことすらできない状態が続きました。
しかし、根気よく訪問を繰り返すうちにB さんも少しずつ態度が軟化。次第に自宅に上がり、お茶を飲んだり会話をしたりができるようになりました。そこで連携室のスタッフは、治療や介護の話をするのではなく、B さんの趣味の話にじっくりと耳を傾けることに徹しました。B さんはとても手先の器用な方で、ビーズできれいなブローチや小物を作るのが得意です。そこで作品を見せてもらったり、創作の話を聴いたりするなかで、B さんとの心理的な距離を縮めていきました。B さんとの信頼関係ができたところで、「年齢的にも、健康面のチェックを受けるといい」と提案。B さんの了解をもらって、ようやく医師が定期訪問診療に入れるようになりました。
B さんの治療としては、イライラや夜間の興奮といった症状については、薬を処方することにしました。
同時にスタッフが付き添ってデイサービスの見学に行き、B さんの好きな手芸ができる施設を見つけ、週2 回利用することにしました。これによって生活にメリハリがつき、B さんの不安感やもの盗られ妄想も徐々に落ちついてきています。
デイサービスの利用で、毎日昼夜を問わず、B さんを見守っていた夫の負担も少し軽減され、最近は夫の表情にも余裕が出てきています。ホームヘルパーが1 日に1 回入り、調理などの家事の手伝いをしており、それも非常に助かると喜んでおられます。

当クリニックが関わるようになって、1 年ほどになりますが、現在もB さんご夫婦は2 人で在宅療養を続けています。
ただB さんは、医師の訪問にはいまだに抵抗を示すため、月1 回の定期訪問では、診療時間より少し前に医療連携室のスタッフがお宅へ出向き、B さんから手芸を教えてもらう時間という設定にしています。手芸教室の合間に医師も顔を出すというかたちにすると、親しいスタッフがいるためか、B さんも安心して診療を受けられるようです。
医師と看護師、連携室のスタッフで綿密に打ち合わせをしながら、訪問診療と生活支援を続けています。


【解説!】

在宅医療で行う、認知症の高齢者の支援

認知症を理由に、在宅医療を始めるケースは増えています。高齢者が要介護になる要因の第1 位が認知症です。
B さんの事例のように、大きな持病などがなく身体的には健康という人では、本人は認知症だと自覚できないことも多いと思います。
ただ本人も「何かおかしい」とは気づいていて、混乱や不安を抱えています。そこで周りが失敗を責める、本人の話を頭ごなしに否定するといった対応を続けていると、それによってますます混乱し、問題行動がひどくなることがあります。

また、家族の側がなかなか認知症という事実を受け入れられない例もあります。しっかり者できれい好きだった母親が変わってしまい、夫や息子、娘がそれを受け入れられずに叱り続ける。そうした家族間の葛藤が起こることもよくあります。

ただ、認知症の方を抱える家族が大変なのは事実です。認知症は症状の現れ方や進行の仕方も、人によってそれぞれです。生活が昼夜逆転し、夜中に興奮して騒ぐとか、徘徊が多くなって警察にたびたび保護される、家族や周りの人に暴力・暴言をぶつけるといった症状が出てくると、家族も疲弊してしまいます。
実は私の母親も、認知症の祖母の介護をしています。祖母が紙おむつをトイレに流してしまい、汚水が部屋にあふれた経験もあります。忍耐強く認知症の人の介護をされている方には頭が下がりますし、何かこれをすればいい、という手っ取り早い解決策があるわけもないことは理解しています。

それでも、B さんの事例のように、認知症の症状が出てきて通院も介護サービスも嫌がるといった場合、在宅医療を検討することをおすすめします。在宅であれば、患者さんの慣れた自宅へ医師や看護師、スタッフが行って話をしますから、病院に行くのに比べて患者さんのストレスを軽減できます。
認知症の人の在宅医療は、強い興奮などは薬で症状を緩和することもありますが、基本的には生活支援が中心になります。認知症の人の困った症状にどう対応すればいいかを看護師・介護スタッフが在宅医療を始めるまでの物語
アドバイス
することもできますし、家事が困難になっていればヘルパーが入ってサポートします。
またデイサービスやショートステイなどの介護保険サービスを利用し、介護をする家族が本人と離れる時間をもつことも大切です。家族だけで抱えていて疲労困憊してしまう前に、相談してください。


患者さんの生活に入り、支える「医療連携室」の役割

当クリニックでは、B さんの家庭のように、認知症やその他の理由でクリニックに相談に行くのも難しいというようなケースをサポートするため、「医療連携室」を設置しています。医療連携室のスタッフは、看護師などの有資格者で医療・介護の知識をもつ専門家です。

一般に、病院には医療ソーシャルワーカー(MSW)という職種があり、患者さんが転院・退院するときには、治療を引き継ぐ医療機関や施設を紹介しています。そのほか介護保険申請の方法を伝える、医療費負担が大きいときに相談にのるなど、病院の患者さんの治療・療養を支える活動をしています。
当クリニックの医療連携室は、こうした医療ソーシャルワーカーの業務だけでなく、さらに幅広い活動をしています。患者さんや家族から相談を受けるのはもちろん、地域のケアマネジャーや民生委員、地域包括支援センター、高齢者施設、病院など、さまざまな窓口からの依頼・相談を受け、患者さんや要介護の人を在宅医療や適切な支援につなげるのが医療連携室の役割です。

また在宅医療の医師や看護師、ケアマネジャー、介護スタッフといった多職種連携の鍵となるのが、この医療連携室のスタッフです。こうした専門職を指す一般名称はまだ存在しないのですが、あえて名称をつけるとすれば“在宅医療コーディネーター”という呼び方がしっくりくるように思います。

現状では「医療連携室」をもつ在宅医療クリニックは、まだ限られているかもしれません。しかし、患者さんや家族が安心して在宅医療を進める土台をつくるという意味で、医療連携室は非常に重要な役割を担っています。
在宅医療クリニックを選ぶ際には、医療連携室やそれに類する職種、窓口があるかどうかを、1つの目安にするのもいいと思います。


【事例2で知ってほしいポイント】

● 高齢者が要介護になる要因で、最も多いのが認知症。本人や家族が認知症を認められず、混乱することも多い。
● 認知症によって通院が難しい場合は、在宅医療の開始を検討してほしい。
● 在宅医療での認知症への対応は、一部の症状には薬を使うこともあるが、基本は生活支援が中心。介護者に認知症の人への対応をアドバイスするほか、家事などの支援を行うことができる。
● 認知症の人の介護をする家族の心身の健康を守るためにも、在宅医療や介護保険サービスを積極的に活用するとよい。
●「 医療連携室」のような相談窓口がある在宅医療クリニックでは、より質の高い支援を行うことができる。


引用:
『事例でわかる! 家族のための「在宅医療」読本』
著者:内田貞輔(医療法人社団貞栄会 理事長)
発売日:2021年6月1日
出版社:幻冬舎