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動作トラウマ 3


前回、大事なことを言い忘れてました。

前回上げた「幼少トラウマA=家事」についてなんですが、

私は日常(特に家事)
「心が入っていないまま、動いていることがとても多い」ということです。
「矯正、二人羽織」の動きというのは、
私はその最中、自分の力をできるだけ抜くように気をつけていた記憶があるし、
そこに、私自身の意志や気持ちは全く入っていないからです。
私は母親の「機嫌」と「次なる動作」に全力集中していました。

「野菜を切る」動作は「私自身の頭や心」を経由せずに、動いている。

そうやって、私の意志を「放棄」すると、母親にマル○(承認)をもらえる、ということです。
自分一人で「その動作」を行うときにも、「形だけ」模倣したときに、マル○がもらえる。

何度かそういう経験を繰り返して、
「何故かわからないけど、お母さんの動きをそっくり真似すれば怒られない(=愛される)みたいだ!」と小さい私は学んでしまったのでしょう。
なんとなく「形だけ」模倣した「動き」をする癖がついてきてしまったのだと思います。

常日頃から「動きの型」をなぞってる感じ。
日常ずっと「能」とか「日舞」みたいな「芸」をやってると言えばわかりやすいですかね。(語弊があったらすみません。)

古典芸能の跡取りの方でも、24時間「芸」の中にいるのは、かなりキツそうに思います。


少し、こうやって思い出してるだけでも、なんだか呼吸が詰まってきました。😅


昨年、ハマって読んだ漫画で『ミステリと言う勿れ(なかれ)』という、ほんわりしたタッチの謎解きものがあるのですが
(つい最近、ドラマ化か何かの広告をみたような気がする…)

主人公の推理が得意で繊細な男の子、
「久能 整(くのう ととのう)君」が言うセリフにこんなものがあります。
「子供の心は、固まる前のコンクリートみたいなものなんです。」というもの。

(ネタバレになります)
とある理由で「久能 整」君に推理の協力を頼みたいと思っている女のコが、整くんの目の前で、自分で用意した暴漢役の男性二人に自分を襲わせる、という場面なのですが。。。
鋭い「整くん」はすぐにその女のコの狂言だと気づくのですが、
その様子を、二人とは全く関係のない「幼児」が、そばで見ていた。そして幼児がびっくりして、持ってた風船を手放しちゃったのを「整くん」が気づいて、
「大丈夫だよ、お芝居だからね。わかるかな?〇〇レンジャーとかみたいな…」と言って説明して、幼児の心の傷にならないように心の手当をする、という、とてもこころの温まる良い場面なのです。狂言した女のコに、「ショックな出来事」が幼児へ与える影響について説明するときのセリフです。


それを読んだとき「あー、私も、子供の時の心の"跡"がそのまま固まってるんだなあ」って、すごく腑に落ちた感じがしました。


「こんなに大人になってから」「今さらかもしれない…」という、諦めに似た悲しげな気持ちと
「まだ、これからでも変われる。大丈夫!」っていうやる氣と始まりの炎が

今は、ないまぜになったような気持ちかな。


まだまだ続く…。


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