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【記憶より記録】図書館頼み 2308#1

 数は少ないながらも良書に出会えたような気がする今日この頃。
 とかなんとか言っておりますが、案の定、8月に入ると同時に読書時間が減ってしまい、結局2回連続(4週間)で借りることになってしまいました。(8月27日返却予定)
 それでは、酷暑で困憊気味(食欲だけは無問題)ではありますが、8月の「図書館頼み」を備忘して参りましょう。 

1:すべてが武器になる 
  文化としての〈戦争〉と〈軍事〉

  著者:石川明人 発行:創元社

人間の考えた事物じぶつの全てが武器に「なる」という可能性と、既に「なっている」という事実を粛々と明示しながら、要所に希少な情報を加味することで、読者が到達するであろう考察に更なる深みを与えてくれるような本だと感じた。個人的には好きな部類の本である。

とかく、武器と云へば銃器や戦車・戦闘機・戦艦等の兵器類が容易に想像できる。しかし、本書で取り扱う「すべて」とは、現代の私たちを取り巻く全ての事物を指し、それらには、武器へ向けた眼差しや発想が平然と内包されていると言うことを、本書は具体的に示してくれている。

何れの項も興味深く読むことができた。
各章の中で事例として挙げられるエピソードは、未知・既知を問わず、異なる視点からのアプローチなされ、新たな景色を見たような感覚を得た。

私自身は、序章「芸術的・宗教的・象徴的」第3章「ネジ、工具、標準化」第4章「語学、民族学、宗教」を、なお注意深く読んだ。
事例として挙げられたダ・ビンチやアルキメデスの話は、私の中にあった彼らの人物像や功績を大きく覆した。こうした見解は、裏切られたという感情を沸かせると同時に、新しい視点を得たという爽快感をも与えてくれた。

元来「すべてが武器になる」という見識や推測は、常日頃から問題意識を持って生活している人間であれば考えが及ぶはずだ。
ただ、エポックメイキングな技術開発やラディカルな理論が世の中に提示された時に発現する大衆(手放しで喜ぶ人間達)の熱狂は、それらに内在する危険性を指摘する声を凌駕する圧倒的なエネルギーを持っているのだから始末に負えないのである。
こうした人間の浅ましい性質もまた、人間が生まれながらに宿している「原罪=original sin」に属しているのかもしれない。


2:シンデレラの謎
  なぜ時代を越えて世界中に拡がったのか
 
 著者:浜本隆志 発行:河出ブックス 

非常に興味深く読めた一冊となった。
以下に続く感想を踏まえ、予め「良書」であると明言しておく。

そもそも「シンデレラ」と言えば、東アジアの島国に生れ落ちた私にとっては、グリム童話を代表する一物語でしかなかった。
本書は、世界中の誰もが知るサクセスストーリーの表皮をメリメリと剥がしてのけた。そんな風に私は感じている。

近年、子育てから解放される時合じあいを迎えたこともあってか、私自身が幼少期に触れてきた童話や民話を再考(ルーツや背景、説諭的意義など)したいという芽生えがあり、その意志に従がって幾つかの書籍に目を通してきた。

その過程で、イソップ物語やグリム童話、アンデルセン物語で拾われてきた物語や説話の源泉に対しても興味が湧いてきたことから、本書を手にとってみた。

表紙を捲って目次を一瞥すれば、構成が堅実であることが分かる。
本書のお陰で、シンデレラ譚が古代エジプトからヨーロッパへ渡ったケースと、中近東からアジアを経由して伝播したケースがあることを知った。
また、口承や言語、翻訳などの影響による可変性についても触れていることに好感をもった。

だが、私が本書を読んで一番感じたのは「定義する難しさ」である。誤解が無いように予め記しておくが、著者はシンデレラ譚を賢明に定義している。
しかし、端的に分類・定義したことで、シンデレラ譚に分類する必要のない話まで拾わざる得ない状態に陥っているように見えてしまった。
更に、世界各所で同時多発的に、或いは散発的・偶発的に生まれた可能性のあるシンデレラ譚的なストーリーのルーツを限定せしめているように感じてしまったのである。
(※著者は、世界各国に残る類似譚を可能な限り収集・提示したかったのだと理解しているが、一読者としては「シンデレラの謎」という主題から乖離していくように感じてしまった。)

余談になるが、私以外の読者にも近似した違和感を持たれた御仁も居たようで、随所に「?」マークが描かれた付箋が貼られてあった。

丁寧に読んでおられると

これは、かつて読了した方の痕跡なのだろう(微笑)。本来は剥がしてから返却すべきなのだが、私としては共感の徒の存在が淡く感じられて嬉しくなってしまった。

こうした本を手にする度に、普遍的な … 或いは凡そ間違いがない答え(定義や公式、例えばF=Мa 等)を見い出そうとする研究者の辛苦を想像してしまうのである(そこに浪漫ないしは意義があるのだろうし、こうした成果を享受する私もまた浪漫を感じている人間の一人でもある。)
そういう意味でも、人生の多くの時間を費やし、情熱とお金を捧げて、自分の定めた課題を探求する人文系の研究者に敬意を払いたい。


3:郷土とことわざ 
  シリーズ ことわざに聞く⑤
  著者:日本ことわざ文化学会 編 出版:人間の科学新社

思い返せば、幼い時分から「ことわざ」で諭されることが多かった様に思う。例えば「石の上にも三年」などは、耳タコの最右翼である。
こうした「ことわざ」は、長い時間を耐えた教訓であることから、使い手にとっては根拠の代わりとなったであろうし、説得力を担保する言葉にもなったと考える。(使い手の能力、立場、人間性によって左右されるが。)

かなり前のことになるが「ことわざ」と「慣用句」の異なりについて調べたことがあった。
幾つかの解説に触れる中で、双方の構造の異なりはある程度理解できた。
ただ、有益な情報(教訓・知恵・規則など)を伝達するという点においては、より使い慣れた言葉を用いる「ことわざ」の方が、瞬発的に頓智(機知)を発揮する必要がある慣用句よりも理解し易いという考察に至った。
※一度理解すれば、キレがある慣用句の方が使い易い面も。

そして本書である。
ここで扱うのは、単なる「ことわざ」ではなく「郷土で語り継がれてきた ことわざ」だ。それはある意味、土着性に富んだ教訓だと言える。
全国各地で、近似した「ことわざ」が確認される一方、気候や地勢といった環境によって著しい差異を見せることもある。この様に多様な表情を見せる「ことわざ」もまた、日本の豊穣を感じさせる文化であると言えよう。

近年、Iターンや移住を進める行政を多く見受けるが、一方で解決が困難なトラブルが起きてしまう場合も少なくないと聞く。
こうした無用な不幸を回避する ” お金が掛からない対策 ” の一つとして、地域で伝承されている「ことわざ」を、予め移住希望者に伝えておくという方策も有益なのではないかと考えた。(移住希望者が陥りがちなバイアスの罠を、初期的に回避・抑制できるかもしれない。)
そもそも、共同作業が苦手な人間が、共同作業を推奨・賛美するような「ことわざ」が多く残る地域に移住するのは無謀かつ愚行であろう。故に「ことわざ」もまた判断の一材料になり得ると感じたという話である(笑)。

こういう下世話な事柄とは別に、東北の地に暮らす人間としては、三陸沿岸に残る「津波碑」に刻まれた教訓が、先の大震災で活かされた地域と、活かされなかった地域があるという事実を、改めて考える機会になった。
また、見識が広がったという点では、言葉の業ことばのわざ」「事柄の業ことがらのわざという観点から「ことわざの範囲」を拡張できたことが大きいかもしれない。

とどのつまりは、市井の人々が生みだした「ことわざ」は、それが有益な教訓や英知を多分に含んでいたとしても、人々の口から発せられなくなった段階で、意義や役割を失うということである。
わけ知り顔で冷めた物言いをしているようだが、先達が遺した「ことわざ」を伝承・継承そして認識し続けることこそが、本書が訴えている重要なテーマになっていると理解する。
この点を無視して「ことわざ」の何たるかを語れはしまい。

喉元過ぎれば熱さ忘れる
こんな有名な「ことわざ」ですら、教訓になっていないように思われる今日この頃である …… と言うよりもむしろ、この「ことわざ」が正解であったことを、私たち人間は証明し続けているのだろう。

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