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高校日本史 室町時代

「社会人のための高校日本史」は、高校の日本史をベースにして高齢者大学の日本史講座向けに作り直した動画です。このシリーズは室町時代。南北朝の争乱から室町幕府・応仁の乱を経て戦国時代まで時系列になっています。

後醍醐天皇は、両統迭立を克服し新たな正統を作り、宋を模範にした天皇親政の樹立をめざした。それは、鎌倉幕府・持明院統・大覚寺統の邦良親王などと対立する困難な道であった。幕府打倒に成功したものの建武の新政は混乱、護良親王との決別、足利尊氏の離反を経て、南北朝の戦乱に突入する。

室町幕府を開かれてから十数年、1350年に観応の擾乱が起こる。足利家は尊氏・義詮と直義・直冬に分裂、北朝・南朝がからみ、戦いは複雑な様相を呈した。擾乱勃発から打出浜の戦い、正平の一統、1352年の南朝軍による京都奪回、そして後光厳天皇の擁立へ、戦況は目まぐるしく移り変わる。

足利義満は有力守護を抑え室町幕府の体制を確立する。幕府は朝廷の権限を吸収して公家と武家が一体化、公方(室町殿)は公武全体の頂点に立った。外交面では、日本国王臣源として明との勘合貿易を始める。三代将軍足利義満から四代将軍足利義持にかけて、室町幕府は全盛期を迎えた。

足利義持は足利義満が築いた強力な幕府を引き継ぎ、室町幕府の全盛期を築いた。足利義持が急死すると、次の将軍は籤引きにより足利義教に決まる。義教は万人恐怖とも呼ばれる強権をふるい、鎌倉公方を滅亡させた。しかし、1441年、嘉吉の乱が起こり、幼年の将軍が誕生することになる。

応仁の乱の原因は少なくとも日野富子ではない。日野富子は足利義視の将軍就任を認め、細川勝元と山名宗全は盟友であった。勝元と宗全の関係が、何時、何故、連携から敵対に変わり、応仁の乱が勃発するのか。足利義政・足利義視・日野富子・細川勝元・山名宗全の動きを追いかけます。

室町文化から絵画の浜松図、世阿弥と金春禅竹の能楽、蓮如が広めた一向宗をとりあげた。世阿弥の花伝書と金春禅竹の明宿集は、秦河勝が赤穂郡に漂着して神になったと伝える。東寺領矢野荘における秦河勝伝承と一向宗寺院の広がりから、室町文化の広がりを探ります。

九代将軍足利義尚が若くして亡くなり、足利義稙が十代将軍になった。しかし、細川政元と日野富子が義稙を追放して義澄を将軍にする明応の政変が起こる。明応の政変から戦国時代が始まり、室町幕府は弱体化、朝廷は財政危機に陥り譲位できない天皇が続いた。

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