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「どうする家康」第29回「伊賀を越えろ!」 家康の徳が天運を引き寄せた伊賀越え

はじめに

 神君伊賀越えを描いた第29回は、「どうする家康」の中でも屈指のエンターテイメントに振り切った回でした。ユーモアに溢れ、忍者たちによるアクション、家康と正信と丹波の丁々発止のやり取り、そして仲間たちの無事と明るい未来を思わせる大団円とバランスが取れていて、状況は最悪でシリアスなものであるにもかかわらず、安心して楽しめるという不思議な回になったのではないでしょうか。


 今回、扱われた神君伊賀越えは、徳川家康にとって三河一向一揆、三方ヶ原合戦と並ぶ三大危機の一つという大事件。これまでの二つの危機は、その起こりから顛末にかけて尺を割き、詳細に描かれました。そして、苦しみと哀しみに満ちた決断が家康の心に深く刻まれ、彼の成長へとつながるドラマになっていました。物語において、危機を乗り越えるというのはターニングポイントとして扱いやすいからです。

 しかし、伊賀越えの危機は、一回こっきりの単発回、前回までの信長とのブロマンス、家臣たちとの絆という心情描写に特化した内容とは真逆のエンタメ回。その振り幅こそが「どうする家康」らしさではありますが、一方で、この危機を乗り越えることで何を描こうとしたのか、何の転機なのか、この回の役割そのものも気になります。


 そこで注目したいのが、御斎峠での家康の「ここからは、このわしに徳があるかどうかだ。わしに徳があれば天が助けてくれよう」という台詞です。

 伊賀越えの本格的な始まりを告げるこの台詞は、戦国時代に広まった天道思想の影響が見られます。天道思想とは、ものすごく簡単に言えば、人の行為、生死は天道によって定められているという運命論です。そして、天の理や人道に背く行為(裏切りや虐殺など)には必ず報いが訪れるということです。
 この発想を元に『信長公記』を書き上げたのが太田牛一です。言うなれば、信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったから、本能寺で報いを受けたと言えるでしょう。逆に徳を積めば、それが自身の運命に反映されるということになりますね。

 

 それでは、家康はこれまでの半生で徳を積めてきたのでしょうか。戦国の世の倣いとは言え、彼も多くの者を死なせてきました。犠牲者の中には自分の妻子すら含まれますし、場合によっては高天神城のように皆殺しも行いました。また、寺社を攻め、農民や家臣を苦しめたこともありますから、その治世も決して穏やかなものとは言い切れなかったでしょう。それでも、天は、誰もが死ぬと思われた家康を助けて、伊賀越えを成功させます。そして、信長を討ち優位に立ったはずの光秀は哀れ落命となります。


 となると、この二人の運命を分けた分水嶺とは何でしょうか?そこで今回は、何が家康の伊賀越えを成功させたのか。そして、それが指し示す家康の進むべき道とは何か。その角度から、家康の徳について改めて考えてみましょう。




1.対比される家康と光秀との違い~家康の家臣への想い~

(1)本性が肥大化した光秀

 冒頭は、燃え盛る本能寺を見た服部半蔵と大鼠の「どういうことなんだ?」という困惑に始まり、畳みかけるように本能寺での出来事、それぞれの反応が挿入されていき、当時の人々の驚きと混乱が再現されています。

 この際、本能寺でのやり取りとして信長の「やれんのか、キンカン頭!お前に俺の代わりが!」の名言が挿入されていることは注目しておきたいところです。第27回、第28回で描かれたことは、「信長を討つ」ということは、今後、天下をどう治めるのかというビジョンを持つだけでなく、天下を睥睨(へいげい)するにあたり生じる様々な恨み、嘆き、そして矛盾を一身に引き受ける覚悟を持つということでした。
 信長の覚悟の裏にある凄まじい孤独と焦燥と怯え、そしてお市に伝えられた信長の家康への深い情を知った家康は、自らの精神のあり方、方法論(出来レース的な騙し討ちも含め)の未熟を悟り、本能寺の変を起こすことを断念しました。


 では、実際の本能寺の変を起こした光秀はどうだったでしょうか。前回の記事でも触れたとおり、今回の光秀の本能寺の変を起こした理由は、近年、支持が多い「突発的な思いつき」説が採用されました。更に、信長の叱責でキャリアが終わってしまった絶望も重なり、ワンチャンスにすがったという面も加わります。つまり、破れかぶれの思いつきに過ぎません。
 当然、そこには信長が描くようなビジョンも天下人が受ける負の感情の全てを引き受ける覚悟などあろうはずがありません。彼が用意できたのは、信長を討つ大義名分を語る美辞麗句だけです。


 こうした光秀の短慮の理由は、オープニング後の浜松城での大久保忠世のさりげない「やれたからやった」で補強されますが、それを受けた於愛の「あれはそんな顔よね」の追い打ちの光秀評が、彼の人間性の卑しさを的確に言い当てています…が、顔で決めつけられたら敵わんですよ(笑)まあ、これは酒向芳さんの演技、表情の素晴らしさゆえとしておきましょう。

 このように本能寺の変をめぐって、家康と光秀は対比的な関係で描かれています。そして、わざわざ、前回の信長の台詞を挿入することで、この関係を引き立てます。つまり、第29回では、二人の判断の根底にあるものの是非が問われるということが、暗示されているのです。



 さて、急転直下の事態に堺の家康も、中国地方の秀吉も呆気に取られるのは前回同様ですが、家康の現状に対する秀吉の「こりゃ死んだな」という冷徹な一言が加わります。秀吉による家康の絶体絶命の状況の強調は、次の堺の場面での緊迫感に引き継がれます。茶屋四郎次郎の報告を家康と共に受けた穴山梅雪は、共倒れを防ぐためにもそれぞれが別れて逃げるほうが得策であると自身の別行動を進言します。この梅雪の進言には裏があったことが後々分かりますが、ここでは知恵者の進言として家康は素直に受け入れ、自分たちも早々に逃げることとします。


 決死行に出るにあたり家康が「一同!誰も死ぬな!」と呼びかける励ましの台詞は、印象的ですね。この台詞は、伊賀越えが始まった最中でも「誰も死ぬな生き延びるぞ」と言う言葉として繰り返されます(第28回)が、ここには、親しい人々と手を携えて生きようとする家康の本来の人間性が表れていますね。

 この想いは、多くの犠牲を払った三方ヶ原合戦と築山・信康事変以降、特に顕著になり、そして、前回、信長暗殺を断念した際に家臣たちと瀬名の想いを育み、いつか天下を取ろうと誓い合ったことで、より確かなものになりました。

 今回の逃避行は、言うまでもなく命がけです。しかし、序盤で城から一人で逃げ出そうとして忠勝に捕まった頃の家康ではありません。また、ただただ生き抜くことに必死だった「ぐっちゃぐっちゃ」(数正)の時代の家康でもありません。死線をくぐり抜けて、目指すべき未来(まだ不十分な形ですが)に向かうための志ゆえの逃亡劇なのです。



 一方、家康追撃の命をくだす光秀は、信長と信忠(描かれていませんが死んだはず)を討てただけで、織田家中や畿内を完全に鎮めたとは言い難いにもかかわらず、既に家臣たちに「上様!」と呼ばせています。信長を討った高揚感に包まれる光秀は、家康の首について「褒美の金に糸目はつけんと日ノ本中に触れ回れ!」と報告に来た家臣を足蹴にし、更に「天下人!惟任日向守光秀の命じゃとな!」とドヤ顔アップで決めます。

 この惟任氏というのは、光秀が朝廷から賜った氏名で、つまりは自分の命は勅命に等しいのだと箔をつけているわけです。突発的な謀叛ですから、朝廷を掌握できている可能性は低いでしょう。ですから、惟任氏の名跡があれば後づけで朝廷は押さえられると高を括っていたのでしょうね。実際、明智家の家系には惟任氏の祖となった豊後の大神氏の血が入っており、全く無縁の氏でもありませんから。

 ただ、この光秀が惟任氏を称したのは、信長の命によるものとされています。というのも、信長の毛利攻略の先は、九州征伐だったからです(後を継いだ秀吉が実行しますね)。そして、1575年、天下一統の仕上げの九州支配のため、朝廷に働きかけて、重臣らに九州地方の名跡を与える勅許を得たそうです。結果、光秀の惟任氏だけでなく、丹羽長秀は惟住氏、簗田広正は別喜(戸次)氏を名乗ることになりました。
 つまり、光秀が惟任氏を名乗れているのは、信長の威光にして意向の結果でしかありません。信長を討ってなお、無自覚に信長の威光で得た惟任氏で天下人を名乗る、未だ信長の威を借る狐に過ぎない光秀の滑稽さは、ここに極まっているわけです。


 それにも気づかぬ光秀は、一人鍋を突きながら、「逃げる三河の白兎が!へっ!焼いて食おうか煮て食おうか、皮を剥いで塩ゆでか…」と生け捕りにされた家康を夢想し、下卑た自身の冗談にご満悦です。ああ、これが世に言う「取らぬ狸(家康)の皮算用」ですね…みっともないことこの上ないですが、酒向芳さんの芝居で最高に仕上がっているという皮肉。
 しかし、箸で刺しているのは芋でしたが、食べている鍋は本当に兎鍋でしょうかね?因みに岡崎城近くの龍城神社では、大晦日に兎汁が振る舞われます。


 最早、教養人、明智光秀の姿は微塵もありません。信長を討った高揚感で先行きを見定めることも、失敗した場合の対処も冷静に考えることができない様子からは無能さが。頂点に立ったとばかりに尊大になり、家臣を罵倒、蹴倒す姿からは傲慢さと横暴さが。個人的な恨みを募らせ執着する様子からは人を苛む性癖が、それぞれ顕著に見えます。
 また、一人、香を焚き、心ゆくまで堪能する姿(麻薬をキメているようにしか見えませんが)と一人、鍋を突くその姿からは、愉しみを人と分かち合わない彼の狭量がよく表れていますね。


 信長に押さえつけられていることで抑制されてきた彼の傲慢さと自己満足の虚栄心が、肥大化したようです。こうした現象は、ここまで描かれてきた彼の狡猾かつ強欲な性格によるところも大きいのですが、突発的な謀叛が成功したことによる高揚感、その麻薬的な効果も多分にあるでしょう。後先も考えず、謀叛の誘惑に負けた男の愚かさが集約されています。




(2)家臣を思いやり、家臣の話を聞く家康

 愚かであっても勢いに乗る狡猾な光秀の金に糸目をつけない命令は、やはり過酷です。家康を窮地に追い込みます。歴戦の勇士である忠勝、康政、そして万千…ではなく直政の強さは言うに及ばず、忠次・数正ら、年配の宿老たち、そして信長仕込みの生き抜く武芸を持つ家康も相当な手練れです。家康には武芸に優れていたという逸話があるとはいえ、松本潤くんの家康は、岡田准一くん演ずる信長の直伝だけあって、個人的な戦闘力は歴代家康の中でも最強かもしれません(徒手空拳でもやたら強い「戦国BASARA」などは除きます)。とはいえ、多勢に無勢…

 そこに駆け付けるは、冒頭、京で「どういうことなんだ?」と言っていた半蔵たちです。流石は忍び、「いだてん」茶屋四郎次郎もかくやという健脚です(茶屋四郎次郎、実際は舟と水路を使い堺に来たと思いますが)。そして、大鼠の「服部党参上!!」の言葉が頼もしく響きますね。



 オープニング後、その後の逃避行について「金もつき、満身創痍」とナレーションに軽く触れられますが、実際の伊賀越えでも道中、上手く金品を配分、ばら撒くことで難を逃れていますが、こうしたとき意地汚く金品を抱きかかえているのは得策ではありません。何故、銀行や現金輸送車が強盗に襲われるのかと言えば、金がそこにあるからです。金品を抱え込んでいれば、落ち武者狩りの格好の的になるだけなのです。使うべきときに使ってしまうのが、命を長らえる方法なのですね。
 まして、彼らの持っている金品は、おそらく茶屋四郎次郎に用立ててもらったものでしょうから、遠慮はいりません(笑)因みに、史実の穴山梅雪は後生大事に金品を持っていたことが死につながったとも言われています。



 とはいえ、先立つものがなくなるということは、糧食にも困るということです。ですから、服部衆が近隣より、大根や蕪などの根菜類をかき集めて「こんなものしかありませぬが」と家康らに献上します。もとより贅沢を言う家康ではありませんから、素直に「ありがたい」「かたじけない」とかぶりつき、家臣らにも分け与えます。そんな彼に更なる野菜を大鼠は献上しようとするのですが、家康は、それには及ばぬとし大鼠たち服部衆らに「食え」と促します。


 このときの大鼠の目を見開き驚き戸惑う様子が印象的です。主君が武士である家臣たちに分け与えるのは普通ですが、身分が低く、どこの馬の骨とも分からない忍びたちにまで温情を施すことは、あり得なかったのでしょう。自身も満足に食べられない状況の中ですから、尚更、奇妙に映ったのでしょう。半蔵に許可を仰ぐのも家康の真意を図りかねたからでしょう。
 勿論、家康に他意はありません。「一同!誰も死ぬな!」の場に服部党はいませんでしたが、その思いは、苦楽を共にするものと一緒に生き延びたいというだけで、そこに身分の貴賤は関係がありません。皆で生き延びるため、食べ物を分かち合ったに過ぎません。


 しかし、こうした気持ちは尊いですが、極限状態の中でも貫くことはなかなか難しいものです。丹波に囚われたとき彼女は「俺たちの親は穴蔵で虫っこ食って暮らしとった」と述べていますが、彼女自身も似たような経験をしてきているのは明白です。日々、食料を奪いあったことでしょう。花も愛でず食べるものであった描写もありましたね。
   だからこそ、家康の行為は驚きに値するものとして、彼女の中に深く刻まれるのですね。
 そして、この大鼠の驚きをとおして、家康の「皆と分かち合う」という人間性が炙り出されるという構図になっています。これは、戦国の世にある弱肉強食の論理と真逆であることは、これまでの記事で触れたとおりであり、また瀬名が家康の優しさとして見込んだことでもあるでしょう。先の一人、鍋を突く光秀とは軽く対比になっていますね。



 さて、食料も少なくなった今、最短で三河へ帰らざるを得ません。そこで、半蔵は「殿 伊賀越えで参りましょう。」と提案します。自身の出自が伊賀であるから便宜が図れるに違いないと考えた彼は「伊賀に入れば安心。」と安請け合いします(苦笑)しかし、途中、甲賀衆の多羅尾光俊の小川城へ寄ることになり、甲賀衆が伊賀ものに協力するのかという問いに対しては、半蔵は言葉を濁し、彼の判断が相変わらずあてにならないことも見えてきます。
 そんな彼の言動を品定めする家康の表情がいいですね。半蔵の言動が怪しくなります。しかし、他に方法がないと判断した家康は、半蔵の言葉があまりあてにならないことが分かった上で提案に乗ります。「どうする?」と周りに問われる前に決断したことは、家康の成長ですね。リスクを呑み込んで、決断しなければならないことを彼も覚えてきているということです。



 そうした家康の判断を受けて、忠次と数正の宿老二人が即座に「追手を巻くために三方に分かれて参ろう」とリスクヘッジの提案をするのが、家臣団のチームワークです。

 さて、神君伊賀越えは、『石川忠総留書』の桜峠越え、『戸田本三河記』の甲賀越え、そして『徳川実紀』の御斎峠越え、と史料によって諸説あります。更に近年は大和説も再注目されており、どのルートを採用するのかは、今回の見どころの一つでした。本作では、三方に分かれることで柱となる三つの説を全て採用ということになりました。
 なるほど、こうすれば、後の歴史に諸説広まり、どのルートにも家康が通ったらしい名所ができる説明にもなります。また観光的にも各ルートが喧嘩をせずに済みますから一石二鳥です(笑)


 この提案に対し、桜峠越えルートを選択した数正に「見晴らしがよ過ぎて伊賀ものに見つかる」と苦言を呈します。このルートの欠点は研究者にも指摘されているもので半蔵の言うことは間違いではありません。しかし、数正はそのほうが家康を逃すためには好都合と言います。近年の研究の指摘を使い、数正が囮としてそのルートを選択したという解釈はなかなか上手いですね。宿老二人が阿吽の呼吸で立てた囮作戦に動揺するのは、無駄な犠牲を出さずに帰還したい家康と重鎮二人を失う愚を犯せないとする忠勝と康政です。実際、伊賀越えは、家康だけでなく後の徳川四天王も揃うなど重鎮が揃っていて誰が欠けても大打撃。その事実に少しだけ触れる展開です。

 しかし、当時、50代半ばの忠次、アラフィフの数正は肉体的に限界で足手まといになることを理由に若い忠勝らに家康を託します。徐々に世代交代が迫っていることを匂わせていますね。そして、数正は半蔵に「服部党一世一代の大仕事と心得よ!やり遂げれば末代までの誉れとなろう!」と鼓舞しますが、今生の別れになるやもとの覚悟があっての励ましです。


 こうなっては、家康も引き下がるしかありません。ここは家康が生き残ることが重要なのです。それが結果的には残された家臣や領民を守ることになるからです。家臣の提案をよく聞き、よりベターな決断をするという家康本来のあり方が表れていますね。これは、信長暗殺における独断専行で未熟さを実感したことも大きく作用していそうです。
 しかし、今生の別れを告げようとする数正を制し「死ぬな」と告げ、全員でまた会おうと呼びかけます。家康のせめてものの思いはともすれば自己満足にしかなりませんが、長い付き合いの家臣団にはこれが家康の真心であることは伝わります。だから、生き延びるための精神的な支柱になるだろうと思われます。

 ともあれ、皆でまた会うためには、まずは家康が生き残らなければなりません。大鼠の「これが俺の最後の仕事と心得る」の一言には、その緊張感と同時に覚悟が窺えます。そして、彼女にその覚悟をさせたのは、野菜を分かち合ってくれた家康の真心があってのことです。



 ところで、三つのルートから家康が選択したのは、『徳川実紀』の御斎峠越えです。珍しく、ナレーションが語る神君家康公神話に添う展開なのですが、実はこのルートが一番、過酷で大失敗。言うなれば、家康のほうが数正と忠次を救う囮になってしまうのです。というのも、御斎峠は下りの傾斜が厳しく伊賀ものに見つかりやすく、またこのルートが最も伊賀という敵地に深く入り込んでしまうからです。何故、本作では、家康たちにこの過酷なルートを選ばせたのか。その狙いについては、「おわりに」で触れたいと思います。




2.家康の持つ「徳」とはなにか~人徳と天運~

(1)親切溢れる甲賀衆

 さて、伊賀に入る前に甲賀衆の頭目、多羅尾光俊のいる小川城で情報収集に行くことになりますが、これは史料どおりです。そして、小川城に着けば、城外に光俊や女性たち村人が総出で、食事をもって家康たちを待ち受け、全力で歓迎をアピールしてきます。多羅尾光俊は、かの上ノ郷城攻略で鵜殿長照を討つ際に多くの甲賀衆を家康の元へ送ってくれた人物です。そういう意味では、これまでの家康の人生における決断の中で得た縁が、彼を助けてくれたと言えます。

 しかし、あまりに盛大な歓待にかえって疑ってしまうのが、ずっと襲われ続けた逃避行の身の哀しさです。何とか彼らに信用してもらおうと、上ノ郷城攻略で半蔵たちと共に戦い、長照を討ち取った伴与七郎も現れ声をかけます。忍者が次々と現れ、何だか怪しいのですが、多羅尾光俊も伴与七郎も実在の人物で家康に協力的だった人々です(笑)


 なおも警戒する家康たちに、彼らは食べ物で誘惑を始めます。ここで反応してしまうのが、直政、忠勝、康政という若者たちなのが良いですね。健康的な身体は素直です。警戒心と身体の欲求との葛藤が面白いですね。まずは炊き立ての赤飯に直政「炊き立ての赤飯とは…卑怯者め」と唸ります。実際に村人たちは赤飯を炊いていたと伝わりますが、直政には、伊賀越えで神社のお供えの赤飯を皆が食べた際に家康らを守る覚悟から食べなかったという逸話があります。二つの要素を組み合わせてのネタなのでしょう。
 本作の食いしん坊万千代では食べることを我慢するのは無理ですね。そして、次の攻撃は干しイチジクです。「…何と卑劣な…」とまたもぐぬぬと唸ります。干しイチジクについては、第22回でつまみぐいをよくしていたことが明かされています。つまり、彼の好物です(笑)

 結局、半蔵と大鼠が毒見をすると小川城に進み出て、食べ始めますが一向に食べ終わりません。「毒見ってこんなに食うもんでしたっけ?」という直政は我慢の限界。釣られて皆食べに行くことになりました。大笑いな内容ですが、実はこの小川城での歓待を疑った話も史料に残っているのです。そこでは、新茶と干し柿を出されて信用したと言われています。疲れ切った身体に新茶と甘味はたまらないですね。このエピソードを直政に引っかけたわけです。何事も腹が減っては、戦はできない。ですから、これで良いのです(笑)



 さて、盛大な歓待をする多羅尾光俊と伴与七郎は、家康たちの伊賀越えを「いかがなものじゃろうか」と懸念を示します。半蔵は服部家の出自が伊賀であるからと言いますが、実情を知らなさすぎることから半蔵が近年、伊賀に訪れていないことを見抜かれてしまいます。それは大鼠たちも同様です。流石に「え?ないのか?」と驚く家康に伴与七郎は「あそこはもともとめちゃくちゃなところ」だと告げます。

 これは、独立性の高い小豪族たちが自身の利益のため小競り合いをしている伊賀の土地柄を指しています。これを戯画的に描いたのが和田竜「忍びの国」です。利益に意地汚く、義理人情など全く大切にしない悪辣、狡猾な悪党として伊賀ものは描かれています。以前、記事内でも触れた大野智くん主演の映画版で確かめてみてもよいでしょう。

そ して、与七郎は「織田さまのおかげでますますめちゃくちゃなことに」と続けます。独立性の高い小豪族の間を取り持ち、丁寧に治めていくことは至難の業です。ですから、信長は制圧という手段を取った(天正伊賀の乱)のですが、結果、有力豪族たちが壊滅して代わりになるものがいなくなった伊賀は、ますます混乱することになったのです。更に、ここでの虐殺によって、信長は多くの恨みを買うことになります。狡猾な連中が統治もされずに跋扈する伊賀の危険性は、言わずもがなです。
 なおも、半蔵は、その天正伊賀の乱で逃れた者を秘かに匿ったのが家康だから、きっと恩義に感じているはずと食い下がりますが、多羅尾光俊は「あの地にそんなものがあればよいが」と一蹴し、山伏となって信楽を通る甲賀越えを提示し、自分たちが最後まで護衛、送り届けると提案します。



 一番過酷な御斎峠越えをかわすチャンスが再来したのですが、これをふいにしてしまうのが半蔵の分析です。「どう思うか」という家康に、半蔵は歓待が行き届き過ぎていることから怪しい、危険と進言します。離れたところにいる光俊は家康と目が合うと満面の笑みで応えてくれます。それだけに半蔵の進言に信憑性を感じてしまった家康は、彼の進言どおり、彼らに気づかれる前に出立してしまいます。
 この状況判断が失敗であったのは言うまでもありません。いくら、きたろうさんが演ずる多羅尾光俊の満面の笑みが胡散臭く、信用できなかったとはいえ、忍び同士の化かし合い、駆け引きだけを考慮した半蔵の分析は稚拙です。なにより、半蔵は伊賀の現状を知りません。この場を逃れるだけが得策とは言えません。伊賀に行ったなら絶望的だと光俊の言葉だけが虚しく響きます。

 実際のところは、有力な雇主の一人である家康に恩を売っておこうとしただけのことだったのでしょう。因みに家康はこの恩を忘れてはおらず、その後。秀吉政権下にて、秀次失脚の連座で光俊が改易された際に息子らを召し抱えています。

 



(2)家康の人間性と知性が全てを救う

 避けられるチャンスまで逃し、御斎峠に来た家康は、例の「ここからは、このわしに徳があるかどうかだ。わしに徳があれば天が助けてくれよう」との台詞を口にします。天命に運を負かせる家康の静かな覚悟は、何を意味するのでしょうか。


 ここまでの逃避行は、実は家康自身が持てる全てを使って、自力で切り拓いてきました。それは、茶屋四郎次郎が用意してくれたであろう金品類、家臣団の武勇と知恵、そして過去の仕事で得た縁による援助です。しかし、既に金品は尽き、生き残るために三方に別れ数が少なくなった家臣団と自分は疲弊しています。また甲賀衆の援助も振り切ってきてしまいました。無い無いづくしの上に、これから進む伊賀に関する情報は何もありません(せいぜい多少の地理だけでしょう)。伊賀越えに際して、家康はそれを成功させる外的な要因を全く持っていないのです。


 となれば、伊賀越えを成功させるのは、家臣らの意見を聞き、ここへ向かう決断をした家康自身の人間性そのものしかありません。危機が訪れたとき、相手とやり合うだけの人間性を保ちうるか、そして自分の意思を貫けるか、自分の積み上げてきた半生が試されるときが来たのですね。本能寺の変を起こした光秀がそうであったように、人は危機に陥ったときに本性が表れますが、家康はどうでしょうか。実は家康には秘めたる思いがあり、それは丹波に捕まって後に分かりますが、その思いこそが、家康が自らを助く人間性になります。



 さて、伊賀に入って早々、敵意が周りに満ちています。監視する伊賀ものたちの目線から見る家康の映像が逆さまなのが巧いですね。こうした不安定な映像は、家康の危機を示唆しています。果たして、伊賀ものたちが襲い掛かります。善戦し、忠勝たちが全力で食い止めつつ、半蔵たちに家康を逃すよう頼みます。結果、忠勝らと袂を分かち、家康を守る半蔵も大鼠も必死に戦いますが、落ち武者狩りの連中とは違う手練れの忍びの術とその数には敵うはずもなく、結局、家康は囚われ、服部党と共に牢に入れられることになります。遂に家康は家臣団すら剥ぎ取られ、丸裸にされました。家康に残されたのは抜き身の人間性と決して縁が深いとは言えない忍びたちだけです。

 そこに登場するのが、伊賀衆の頭目、百地丹波です。「忍びの国」のように彼を百地三太夫と同一視して扱うことも多いですが、軍記もの『伊乱記』に登場する丹波と違い、三太夫は講談のみの人物。そのためか、本作では、同一説は取られていません。が、それよりも丹波は当時、20代半ばだったはず。嶋田久作さん演ずる丹波の貫録と不気味さと老獪さは圧巻ですが、年寄り過ぎます。となると、この姿は本物ではない、相手を威圧し、部下たちをまとめ上げるための変装かもしれませんね(笑)

 


 捕まった直後、蘭奢待の香をキメて恍惚に耽る光秀の元に「家康が首持参いたしました」という何事かと一瞬だけ思わせる場面が挿入されます。首実検をした光秀は「これは首違いじゃ」と家臣を𠮟りつけますが、家臣は「我こそは徳川家康ともうしましておりましたゆえ」と言い訳をしたため、光秀に蹴倒され、罵倒されます。どこまでも卑しい人間に成り下がる光秀です。



 勿論、現実は家康の首はまだつながっています。牢に入れた家康一行に、光秀に差し出せば大金になるという百地丹波に向かい、半蔵は父が伊賀衆でも幹部であったはず、とその縁を頼り説得を試みますが「知らん」と興味も持たず、また周りも嘲笑います。

 今度は大鼠が、天正伊賀の乱で逃れた伊賀ものを匿った家康には恩があるはずだと言いますが、これまた「それがどうした」と一蹴します。今、ここで必死に生きるため、金を欲する丹波たちにとって、かつての縁も、身内が助けられた恩も、彼ら自身の直接的な利益にはなりません。無意味なのです。「ますますめちゃくちゃなことに」(与七郎)なったこの国の過酷さゆえに、多羅尾たちは縁だとか恩だとかは、通用しないと言ったのです。


 過酷な生き方をしてきたのは、忍びである自分も同じと思う大鼠は、「この殿が、まともな暮らしができるようにしてくださった。俺たちを人並みに扱ってくださったんだ」と家康の恩義がどういうものであるのかを語ります。このとき、やや俯き加減に絞り出すように言う大鼠の表情には、下を向いて生きるしかなかった自分たちの苦境を思い出しながらの言葉であることを窺わせます。

 家康の与える仕事のおかげで生きる糧を得られたのは確かでしょう。しかし、それは半蔵をとおしての間接的なものでした。勿論、報告などで直接の接触をしていく中で、家康が人品卑しくないことは分かったでしょうが、それでも感謝は通り一辺倒だったでしょう。

 それが大きく変化したのは、瀬名の件だと思われます。彼女は、内定目的で築山屋敷の下に潜り込んでいましたから、実は瀬名が描く「慈愛の国」構想も直接、聞いているんですよね。そして、瀬名は夢に殉じ、そして家康に願いを託し、彼とその国を守るために自決することになりますが、それに先立って、自分の身代わりとなるはずだった身分低き者を見逃しています。
 瀬名の理想が嘘でないこととその覚悟を受け止めたがゆえ、大鼠は全身全霊で彼女の介錯を務めます。その彼女が守りたかった家康を守ること、彼女の無念を晴らすこと、これらはその後の彼女の行動の一端になったはずです。

 そして、彼女に代わり、家康を守る伊賀越えで接した、食べ物を自分たちに分け与える家康の姿。彼女はようやく瀬名が何故、彼を守ろうとしたのかを実感として理解しきったのではないでしょうか。だから、半蔵にすら敬語を使わない彼女が「俺たちを人並みに扱ってくださったんだ」と述べたのでしょう。言うなれば、瀬名の想いが、大鼠に家康の人間性を気づかせたと言えるでしょう。



 しかし、その言葉を奴隷根性、彼女らを誑かす家康の欺瞞と取った百地丹波は激昂し、家康の首を刎ねるため、彼を牢から引きずり出し、刀を当てます。即座に服部党の全てが「そいつは家康ではない」「わしが家康じゃ」と口々に言い募ります。女性である大鼠までその言葉を発するところに何としてでも救いたいという、下々の者たちの願いが見えます。家臣団、つまり武士ではない者たちすら家康を庇う。これこそ家康がこれまで築いた絆のなせる業ですが、丹波には通用しません。


 また忍びたちの自分への強い思いをこうも受け止めた家康が彼らを身代わりにすることなどあろうはずがありません。彼は誰かが自分の身代わりになる苦しみを何度も味わっていますから。それゆえ、首を刎ねられる惨めな姿勢のまま「わしが家康じゃ」と明言します。
 無論、何の感銘も受けない丹波は「知っとる」と返しますが、家康の思いはそこではありません。「他のものは見逃せ」、このことでした。金になる自分の首の代わりに、他の者の助命を買うたのです。家康の秘めたる思い、それはいざとなったら皆を自分の愚かな決断に巻き込まないことだったのです。


 彼は半蔵の進言に従いここまで来ました。それは間違いだったのですが、決断したのはあくまで家康であって、半蔵ではありません。半蔵に罪はないのです。主君にとって大切なことの一つは決断ですが、もう一つ大切なことは失敗した場合は、責任転嫁することなくその腹を切り責任を取ることです。家康はそのことを分かっているのです。だから、御斎峠で天命に従おうと思い、今がそのときであると思い極めているのです。
 喚き散らしたり、泣いたりは一切せず、ただただ静かに運命を受け入れる…多くの死によって生かされたゆえに家康はこうした覚悟を持てるようになったのですね。泣き虫弱虫洟垂れの家康が大きく成長したと分かるところですね。



 一連の流れは、視聴者には感動的ですが、金銭的な利益だけを価値基準にする百地丹波たちには関係のないことで、どこまでも平行線です。埒が明かないそのとき、一番美味しい絶望邸な状況に表れたのがイカサマ師の偽本多、本多正信です。なんと彼は、伊賀衆たちの軍師として潜り込んでいたのですが、史料的にも本能寺の変、前後に帰参したとの話があり、伊賀で軍師はともかく、伊賀越えに秘かに混ざり込んでいてもギリギリおかしくないということでしょう。

 しかし20話ぶりの登場というのに、一気にその場の空気を一変させ、全てを持っていってしまう松山ケンイチくんの演技力には脱帽です。


 さて、「こんなところで会おうとは」と嘯き、「惨めじゃのう」と煽り続ける彼は、家康を助けるどころか、三河一向一揆での家康の悪行を上げへつらい、殺せず残念だった、ようやく殺せると芝居がかった様子で語ります。本作が正信をこの伊賀越えで復帰させたのは、大昔の三河一向一揆の件を持ち出させるためです。

 これまで家康は多くの者を犠牲にしてきましたが、その多くは状況が悪すぎたり、判断ミスであったり、信長からの圧迫であったり、家臣たちの力があっても回避できない、やむを得ないもの。許されるわけではありませんが、そこに悪意はありません。

 しかし、劇中ただ一つ、明確に家康の傲慢によって、領民と家臣を自ら苦しめた悪行として描かれたのが、三河一向一揆です。先の家臣団や服部党との固い絆が、家康の誠実さや優しさがもたらしたプラスの面だとすれば、これは負の歴史、黒歴史と言われものです。家康が、運に天を任すとするなら、その正しさだけでなく、間違いも天道に対して遡上に乗せなければ公正ではありません。決して、そこも見逃さないため、当事者の正信を裁判官として登場させたのでしょう。



 家康の罪の部分を裁くに相応しい正信は、今の家康をどう見ているのか。正信は、丹波に首を打てと言った直後、「妙な噂もあるが、気にするな」と言い出します。当然、こんな言い方をすれば誰もが気になります。問い質してみれば「信長が生き延びている」という噂です。伊賀衆は天正伊賀の乱で地獄を見ています。信長に恨みはあれども、それ以上に彼に恐怖を覚えていますから、万が一生きていて、明智の味方をしたことが知れれば一大事です。狡猾なペテン師の正信は、そんなことはあるはずないし、万が一、生きていても俺が守ってやると首打ちを勧めつつ、「信長の首が見つかっていないのは本当」と大事な情報を今更、言います。

 ただでさえ疑り深い忍びなれば、疑念が湧けば湧くほど、身動きが取れなくなります。そこでダメ押しに、もし信長生きていたら、光秀などあっという間であること。そして「信長の弟分」である家康の首を刎ねたら一大事だと言います。こうしたことをつらつら言いながら、正信は家康に交渉するなら今だと合図を送っています。流石の家康も正信の意図が呑み込めてきます。


 そして、丹波の信長は生きとると思うかの問いに、家康は「死んでおると思う」と正直に答えた上で「だが、信長の首が見つかっていないのは事実。だから、即座に明智に味方をするものはおらん」と述べ、光秀は信長の首を手に入れられなかった時点で負けていると的確な洞察力を披露します。当の光秀だけがそのことをよく分かっていないのか、家康の首ばかり追っていることと対照的です。

 理に適った説明の上で家康は「わしに恩を売れ お主にとって最も利となることじゃ」と自分の側につく利を説きます。そう、この場の家康に足りなかったのは、相手を味方につけるには相手の欲するものを与えるということです。半蔵の言葉も大鼠の言葉も結局は、自分の側の理屈でしかありません。異なる価値観の相手に自分の理屈ばかり解いても意味がないのです。果たして、丹波は「賢い物言いじゃ」と初めて笑い、「お主にかける」と請け合います。


 ここで丹波は「軍師殿が惚れ込むだけはある」とニヤリとします。丹波と正信が最初から仕組んだことか、それとも丁々発止の中で正信の狂言と気づいたのかは分かりません。しかし、これで家康は、今までとはまた別の価値観を持つ味方を得ることになるのです。
 この過程で、家康は、正信の誘導によって、相手の欲するところを見抜き、それを提示するという交渉の基本を自ら掴みました。     その後、家康は彼ら伊賀ものを取り立てて、彼らに「利」を与えることになりますが、これによって家康につけば利益になると知った周りの小豪族たちは進んで家康に従うことになるでしょう。ですから、実は家康は、伊賀ものたちに与えた以上の利益を得られるかもしれない。懐柔策の重要さも家康は身を持って知ったのです。
     そして、ここで得た交渉術は、伊賀や甲賀、紀州など小豪族の多い支配の難しい地域を治める手段としても、また調略によって相手を籠絡し、敵を切り崩す手段としてもこれから家康は多用していくことになります。そして、その謀略の側には常に正信がいるようになります。つまり、これは記念すべき二人の初仕事なのかもしれません。


 それにしても、正信は、相変わらずやり方は胡乱ですけど、極めて親切でもありました。そして、これが、三河一向一揆という家康の負の歴史に対する、正信の判決です。彼は「忍びたちのために自らの命を投げ出すとは聞いたこともない。なかなかの主になられたようじゃ。」と「よくできました」という表情をします。

 あの三河一向一揆で家康は何を学んだのか。それは「領民や家臣を信じぬき、彼らを守ること」でした。そして、この伊賀越えの一件でその想いが嘘でないことを、自らの人間性として証明して見せたのです。家康が、御斎峠に来た際に「徳があれば天が助けてくれよう」と述べた通りになったわけですね。満足気な正信に応じる家康の顔も自信に溢れています。信長暗殺断念の意気消沈が、正信の計らいによって結果的に解消されたのですね。



 さて、伊賀越えを無事に終え、白子浜にて、忠次、数正らと合流します。捕まって試練を受けていた家康よりもスムーズに進んだ彼らのほうが早く着いているのが皮肉です。自分たちこそが、彼らを逃がす囮になっていたと気づき、思わず鼻白みます。そして、ようやく多羅尾光俊の申し出が単なる親切であったと分かります。つまり、半蔵以下、服部党は一世一代の大仕事も無駄に苦労だけ重ねたのに役立たずというオチがついてしまいます。何せ多羅尾光俊の胡散臭い笑顔以上に、半蔵の判断のがアテにならなかったのですから。


 しかし、共に彼らと苦難を乗り切った家康は、夜明け前の浜で「いや、此度、生き延びられたのは服部党のおかげ。皆に褒美を取らす。」と明言します。苦難の道になったのは、あくまで家康の決断です。その決断の中、最善を尽くし、家康を守り、こうして今、ここにいるのです。褒めて然るべきなのですね。

 そして、家康は半蔵に「きょうからお主も立派な武士じゃ」と声をかけます。やっと武士として認められ、嬉しい反面、自分は武士だとの思いも募る半蔵は「最初から武士です」と答え、笑いを誘います。かつては嘲りを含んでいたその笑いも今は、無事に事を成せた安堵のみです。半蔵もわだかまりを捨て、ようやく皆の前で破顔します。解放された山田孝之くんの笑顔が爽やかです。
 調子に乗って、どさくさに「武士ならば側室も持たねば」と大鼠を抱き寄せ、パンチを食らうのもご愛敬。大鼠がまんざらでもなさそうですから、今度は大丈夫かもしれません。因みにこの件がきっかけで、伊賀衆の子孫たちは伊賀同心として半蔵の元でまとまることになります。


 そして笑いの中、飄々と皆の前に現れ、驚かせるのは正信です。忠勝は「嫌われ者のイカサマ師、偽本多じゃ」と辛辣ですが、家康は皆に取り成します。今回の件で家康を認めた正信は帰参を言い出したいものの、その天邪鬼から素直に言えず、三河は追放されたけど、今、家康がいるのは浜松だから大丈夫と回りくどいことを言います。家康が快く、いつでも来るよう促すのが良いですね。微笑み合う家康と正信の関係に、新たな、そして確かな絆が窺えますね。

 こうして夜明け前の白浜が、家康たちの前途が明るく開けることを予感させる中、彼らは帰還します。



 さて、帰還後に家康が聞いた驚くべき事実は、穴山梅雪が家康の身代わりとなって死んだということでした。先に光秀の前に献上された「我こそは徳川家康ともうしまして」斬られた首は梅雪のものだったのです。思えば、別行動を申し出たそのときには、彼は身代わりを決意していたのでしょう。これは、本作オリジナルの展開(梅雪が家康に間違われて殺された逸話はありますが)ですが、この梅雪ならば、こうした行動もあり得るでしょう。

 前回、彼は「主を裏切って得た平穏は虚しい」と述べています。無論、その虚しさの中生きる覚悟で織田・徳川方に着いたのでしょうが、覚悟することと現実に虚しさを味わって生きることはレベルが違います。勝頼の首が差し出されたときの動揺にも、それが見て取れるでしょう。

 彼は、慈愛の国構想で瀬名と同じ夢を見ながら、勝頼の命で心ならずも彼女を裏切ります。そして、結局は甲斐の国のため、勝頼も見放すことになります。その後、家康は瀬名を裏切ったことを責めるでもなく、彼を厚遇しています。その胸中は複雑なものがあったでしょう。また「主を裏切って」の言葉は、勝頼だけでなく、大恩ある信玄に対する思いが大きく占めると思われます。

 こう考えていくと、彼はどこかで死に場所を求めていたのかもしれません。彼もまた武田軍の男ですから、戦場で死ぬことを良しとしたでしょうし。その胸中はいかばかりかと思います。一方で、彼を家康とつないだのは、瀬名の功績です。瀬名が慈愛の国の夢を彼に見させたことが関係の始まりです。結果的に瀬名が梅雪を引き入れたことが、家康の命を守ったことになります。全ては、家康の人徳につながっていきますね。




(3)天に見放された光秀

 ところで、正信の話が巧妙なのは、相手を翻弄する会話術や挑発術もありますが、情報の正確さがそこに織り交ぜられているからです。まず、「信長が生き延びている」という流言は、中国から戻ってきた秀吉が流したものです。目的は、家康の見立て通り、光秀の味方に付く人間を出さないためです。そして、秀吉の策はまんまと当たり、彼は山崎の合戦に破れ、落ち武者狩りに合います。


 光秀は、家臣らが討たれるのを影で見ながら、一人山中を逃げ回ります。家康の伊賀越えで多くの者が、彼を守ろうと必死になったことの対比であることは言うまでもありません。逃げながら、光秀は「信長よりも上手いことやれたんや」と呟きます。これは信長の「やれんのか!」に対する言葉ですが、光秀は何も分かっていません。天下を治めるとは「上手くやる」ことではないのです。
 ただ運がないことを嘆き、自身の虚栄心を満足させているだけの小者でしかありませんね。その小者ぶりは、落ち武者狩りに囲まれ、薄ら笑いを浮かべながら「わしは明智やないぞ」と誤魔化し、生き延びようとするところに凝縮されています。自らが起こした本能寺の変の結果を見ようともせず、逃げ回り、責任逃れに終始する。どこかの政治家や、どこぞの会社幹部でよく見られる光景ですが、これまた伊賀越えで責任を取り伊賀衆を守ろうとした家康とは真逆の行為です。
 そして見苦しく、刀を振り回し、叫び、そして死んでいきます。


 ところで、本作の光秀が、信長の首を手に入れることが出来ていたら、あるいはもっと計画的であったのなら天下を取れたのでしょうか。答えはNOです。どういう手段であれ、どう大義名分を取り繕おうとも結局は主君を討った謀叛人に過ぎません。秀吉が「やったやつはバカを見る」とは言い得て妙です。天に逆らう行為をすれば、その報いを受けるだけなのです。

 また、謀叛の結果、剝き出しになった彼の傲慢、独善、人を苛む癖、横暴、執念深さは、徳の無さを象徴していますが、こうした傾向は家康に対する態度として度々、表れていたものです。そして、信長や義昭といった権力者に阿る。おべっか使いという卑しさも彼の特徴でした。流言がなくとも、彼の元に馳せ参じたいと思う者はいなかったでしょう。

 結局、光秀はこれまでの人生の選択の結果による人徳の無さ、人の道に背く謀叛、この二つによって天から見放され、天の動きの流れを掴んだ秀吉に敗れることになります。もしも、家康が信長を暗殺していたら…卑しい光秀とは違うルートでしょうが、やっぱり天からは見放され、家康が謀反を起こすと読んでいた秀吉に討たれたことでしょう。



 とはいえ、天道を読み、信長の敵討ちを果たしたという名分を得た秀吉は、天運を引き寄せるような人間ということになりますから、やはり恐るべき怪物です。その彼は、光秀の首を見て、「今までで一番いい顔しとるがや」と笑います。家臣に「上様」と呼ばせ、「天下人」を詐称しする剥き出しの野心、人を見下す酷薄さと傲慢、そして死ぬ間際の虚栄心と小心…彼の死に顔にはその人間の欲望の全てが凝縮されていたに違いありません。お高く止まり、優雅そうに振る舞っていた鼻持ちならない男の本性と最期に秀吉は留飲を下げ、安堵したのでしょう。

 ここには秀吉の高貴そうに振る舞う人間へのコンプレックス(光秀は秀吉にとって出世なのライバルでした)、そして人間は所詮、欲望の塊でしかないという割り切りが見えるように思われます。その本性は、次回以降、明確になってくるでしょう。




おわりに

 『徳川実紀』が、過酷な御斎峠越えで描きたかったことは、二つです。一つは、誰もが成し得ない伊賀越えという大きな苦難を乗り越えたという家康の偉大さです。

 もう一つは伊賀越えを多くの人間の助け(ここでは伊賀衆は天正伊賀の乱で伊賀ものを匿った家康に感謝して助けたとされます)で無事に通ることができたという家康の徳の高さです。裏を返せば、伊賀越えは過酷でなければ演出にならないのです。したがって、「どうする家康」の伊賀越えもまた、実行しやすい簡単なルートではなく、過酷な御斎峠越えを採用し、本作ならではの家康の徳を描こうとしたのでしょう。


 では、家康の「徳」とはなんでしょうか。簡単に言えば、「必要なときに必要な人の力を得られる人徳」です。この「人徳」を支えるのは、3つの要素があります。一つは、家康の持つ優しさと誠実さです。彼は、これによって他者と手を携え、分かち合おうとします。その根底には相手を信じるしかないと覚悟する強さがあります。これは今回、家臣団や服部党との関係性で証明されましたね。こうした広く人を愛する仁愛は、本作の家康の美徳ですが、その性格に頼るだけでなく、多くの哀しみを乗り越える中での努力の賜物です。


 次に、これは天性のものでもありますが、その優しさと誠実さゆえに人に好かれ、愛されるということです。その優しさゆえの不甲斐なさ、誠実ゆえの苦悩を家康は持っています。それだけに、周りはほっとけない、助けねばと思わせるものがあります。そう思うのは、家臣団だけではありません。信長や瀬名や於愛といった人々もいます。そして彼らの想いは直接的なものだけでなく、間接的も家康を助けます。

 例えば、今回、家康を最終的に救ったことの一端は、光秀が信長の首を手に入れられなかったことです。前回の記事で触れたように、信長が光秀にもその後の秀吉にも遺骸を与えなかったのは、「自分を討って良いのは、唯一無二の友、家康だけだから」というブロマンス的な理由です。つまり、信長は死してなお、家康を光秀から守ったことになるのですね。

 また、大鼠の家康を守ろうとする覚悟も、穴山梅雪が家康の身代わりになったことも瀬名の影響が大きくあります。今の家臣団と家康をつなぐのも瀬名の力が働いています。瀬名もまた死してなお、彼を守りたいと思う人々をつなぐ形で家康を守っています。このように人に愛される彼は、孤独ではありません。そこが大きな力となっています。


 最後は、家康の性質を活かす知恵です。家臣の話をよく聞き、それを活かす判断をする点は既に手に入れた知恵と言えますが、交渉術は、伊賀越えをとおしてまだ始まったばかりです。そして、これは天正伊賀の乱や秀吉との交渉の中で鍛え上げられていくことになるのかもしれませんね。ただ、この知恵は過ぎたれば、単なる権謀術数になり、人を裏切り、苦しめる道具にもなりますから要注意ですが。

 家康が天道に乗っ取って、運命に導かれるように天下人になっていくためには、まだまだ詰むべき経験があるのでしょう。


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