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「問いの立て方」(宮野公樹、2021)

昨今の「課題解決」を第一とする通念に違和感があります。不都合を好都合に変えるということなら子供でも言えます。その問題はほんとうの問題なのか、解決すべき問題を扱っているのか。もっと言うなら、結局、どうしたいのか、何が「いい」のか…。「課題解決」を第一義に置くのは、これらの本質的な問いについて思考停止になっている証左でしょう。いいことをやっている、高尚なことをやっているようで全然理性を働かせていません。

「課題発見解決学習」なんて言葉が、学校でも普通になりました。
でも確かに、「それって課題なの?」っていうツッコミがそこまでできていない気がします。
(自分が力不足なだけで、世間の教員はできているのかも知れませんが。)

ここで強調したいのは、昔が良かった、悪かった、といったことではありません。むすろ、時代的、歴史的に現状の「いい」を検証することによって、またひとつ違う目線で現状を捉えることができるということです。それによって、ワークショップを例に持ち出すなら、別に大勢がワイワイする企画がいいとも限らないと気づくでしょう。一人静かに内省しあうワークショップがあってもいいはずです、学ぶあるいは考えることが目的のワークショップなら。

流行り廃りがあるのは、世の常ですが、
国家100年の計である教育において、
果たしてコロコロ変わることが適切であるでしょうか?
根本として変わらないものはあるのでしょうか?
変わらないものがあるとすれば、何でしょうか?

今日的話題なら、例えば、これからの情報化社会において必須スキルだということで小学校にてプログラミング教育の実施が計画されたり、全小学校にIT機器を配布することは、一見、なんの問題もないように思えます。しかしながら、そのITの授業を増加させることで他の授業が減ることも考慮しなければいけませんし、教える側もまたそのスキルが必要になって教師自身の学習期間が必要となり、日常的に忙しい教師がさらに忙しくなり、結果、本来の教科への注力がおろそかになることも考えられます。
これは分かりやすい例であり、何事にも長所短所、メリット・デメリットがあると言ってしまえばそれまでですが、その影響が及ぼす時間と広さをどこまで考えるか、想像できるかが精神の仕事となります。それこそが知性と呼ぶにふさわしい。

「その影響が及ぼす時間と広さを考える」ことができるには、
どのようなトレーニングが必要でしょうか?
一つには、歴史を学び、そこから得られる教訓を生かすことかと思います。
他には、論理的思考を高めることも必要な気がします。
幅広い知識、最新の知識を得るという意味では、
英語を学ぶことも一つかと思います。


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