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ボルヘス 『伝奇集』 の並行世界。 すべては密やかに進行する。

世界の成り立ちの秘密。宇宙の仕組み。
人間はじまって以来、あまたの哲学者や科学者、あるいは神秘家たちが挑んできた謎。そう遠くないうちに、その解答になり得るようなことが科学的に示されることになるかも知れない。
なんて、そんな期待を持ってもおかしくないような域に、すでに我々の文明はさしかかっているんじゃないか。と、近頃感じたりする。
科学技術によって、人間の知覚範囲と活動領域は広がり続けいて、いよいよ宇宙や非物質的な次元にまで侵入している。
日々上がってくるテック関係のトピックの見出しを見ているだけでも昨今の進展の目覚ましさを感じるし、意識をしていると、実生活の中でも、少し前までは見ることも触れることも出来なかったものを当たり前のように扱っていることを実感するだろう。
そして、そんな現象や、ちょっとした変化を注意深く観察していると、けっこう近い未来の世界などが、なんとなくはっきりと想像されてくるのです。
たとえば、宗教や哲学と科学が完全に溶け合ってしまった世界。
もはや世界の成り立ちの秘密などに人間が関心を持たなくなった世界が。

仏陀いわく、この世はマーヤ(幻影)だというが、宇宙物理学における学説に「ホログラフィック理論」というものがある。
この理論は、雑に説明すると、この現実の世界は遥かな彼方の宇宙からの情報投影である、ということを言っているものである。まさに、我々が認識しているこの時空間は仏陀の言うとおりのマーヤ、映し出されただけの実体のない幻影 “ホログラフィー” だ、というのである。
ついでに言うと、投影元としてプロジェクターの役割をしているのがブラックホールなのだという。ブラックホールの表面には、ブラックホールが飲み込んだすべての物体の持つ情報が刻まれていて、その情報の投影によってこの我々のいる3次元の現実世界が形成されているらしい。にわかには信じがたい説だが、あのスティーブン・ホーキング博士が最後の論文(共著)でこの理論の数学的正しさを立証しており、多くの宇宙物理学者が支持する有力な説となっている。

また、VRやメタバースが話題となっているが、この現実が仮想空間であるとする「シュミレーション仮説」を耳にしたことがあるかも知れない。
これによると、我々はすでに、映画『マトリックス』で描かれるような任意で作られた仮想現実世界の住人かも知れず、その確率はまあまあ高いという。
このシュミレーション仮説は、ホログラフィック理論とは異なる概念だが、あらゆるものを「情報」と捉えて、この現実は実体のない投影情報だとする解釈では共通する面がある。
どうやら、世界のモノ・コトのすべては数式、あるいは0/1のデジタルコードで表すことができるという、情緒のかけらもないような話が最新のメジャーな理解であるらしい。

「マルチバース(多元宇宙)」の議論も活発だ。
この我々の宇宙の他にも観測できない別の複数の宇宙が存在するというマルチバースのモデルは、膨張を続ける大宇宙の中で泡のような小宇宙が無限に作り出されているとする "泡宇宙" の概念や、我々の運動を起点として異なる世界が無限に発生しているという “多世界解釈” など多岐にわたるが、要は、最近よく映画やアニメの設定で多用されるパラレルワールドの概念だと思えばいい。
このような、現実を遥かに超えたファンタジーの中だったのものが、世界トップレベルの科学者のれっきとした研究テーマとなっているのが現在なのだ。

とはいえ、これらはあくまで仮説の段階。
たとえ事実でも現時点の人類には証明のしようもなく、認識すらできない。
相変わらずこの世界の真理は「神のみぞ知る」なわけで、いち一般人が、世界や宇宙の仕組みを知ろうとすることなど不毛の極みだろう。
しかし、誰しもが、世界の成り立ちを知りたいという欲求を、多少なりとも持っているのには違いないはず。
そして同時に一方で、0/1で割り切れるようなものじゃなくて、神聖な何かを求めるているのにも違いないはず。

さて。前置きが長くなりました。
ホログラフィー、マルチバース、パラレルワールド、そんなぶっ飛んだワードを身近に感じるようになったこの頃、ふと改めて読みたくなったのがラテン文学の巨匠、J.L.ボルヘス。で、代表作の短編集『伝奇集』を久しぶりに手に取ってみた。

ボルヘスの小説は、読みやすくはない。
緻密な構造を持ち、形而上学的、神秘主義的とも言われるボルヘスを理解できている自信は正直まったくない。
「知の巨人」とされるボルヘスの文章には、たくさんの固有名詞と引用と小難しい概念が散りばめられていて、読んでいると過剰に頭を使うので、退屈しているわけではないのに睡くなってしまうくらいだ。そもそも夢の中を彷彿とさせるような現実と虚構が入り混じった物語なので、いっそ睡ってしまって続きは夢で見たい気もするような、要するに読むのがそこそこ面倒くさいものである。
だが、ボルヘスの短編ほどゾクゾクするものもない。
ボルヘスは「知」への欲求を刺激するのである。

無駄のないぶっきらぼうな文体で反復される無限、時間、死、夢、書物、迷宮といったテーマ。思いつきのような断片的な短い物語は、舞台設定は限定された狭い世界の話なのに、永遠に接続するようで、途方も無いスケールに伸びてゆき、そして淡々として静かである。
そんなボルヘスの小説を一言で語るなら秘儀的、だろうか。
ボルヘスを読むのは、隠された智慧、秘密の法則にこっそり触れるような感触がある。奇抜な設定の外堀をじわじわ固めるように進行する物語を読み進めるにしたがって、隠されていたものが明らかになってゆくような感じだ。
わかりやすく大々的に暴かれるのではない。氷山の一角に遭遇したように、不完全な形でチラリズム的に垣間見える。表面上の静けさは背後にあるものの巨大さを仄めかし、抽象的な曖昧さが真実味を増す。そんなところが独特のスリルと快感を生むのではないかと思う。

ボルヘスは幻想文学として漠然とロマンティックに読むこともできるし、哲学の命題を解くかのように読むこともできるだろうが、今の気分で読んでみると、よりSF的な観点が際立ってくる。最新の宇宙や時間の解釈がリンクしてきて、改めてその予言性と、80年以上も前に書かれたとは思えない時代も地域も超越した普遍性とスピリチュアリティに驚愕したわけです。
てことで、『伝奇集』前半の“八岐の園”のパートの読書妄想文です。ネタバレ必須につき注意。



“架空の書評”というフェイクニュース


ボルヘスは、しばしば“偽の書評”を書く。
とある架空の本がさも実在するかのように、実際の歴史や人物と交えて語るというもので、これが非常にややこしく、出典もいちいちマニアックなので、よほどの博識でもどこからどこまで虚構なのかわからないようなものだ。
それらはメタフィクションの先駆的な作品であり、ネット上に氾濫するフェイクニュースの元祖でもあるかも知れないとも思うのだけど、書物の信憑性を揺るがすような、そんな架空の書評の体の作品が伝奇集にも数点収録されている。

そもそも『伝奇集』というタイトルは、原題で「Ficciones」。
ボルヘスによる手の込んだ知的な冗談、茶番だということだ。
ボルヘスは、一貫して創作物のオリジナリティに懐疑的で、作品に絶対的地位はなく、創作はすべてフェイクだと言わんばかりの態度をとっていて、書物は、版を重ねたり翻訳や時代の経過で変節し、その意味は絶えずゆらいでいるという前提に立っている。
ハイパーリンクが張り巡らされたインターネットを予見していたとも言われるボルヘスは、後のエッセイで以下のように語る。
「書物は単独で存在するのではなく、無数の関係が集まる軸である。」と。
書物とは、無秩序に絡まる言語の網を、手繰って束ねた不安定なポータルのようなもの。そんな認識でこの『伝奇集』を読むといいかも知れない。


『円環の廃墟』


「もし彼がきみを夢見ることをやめたなら…」
冒頭のエピグラフはルイス・キャロル。『鏡の国のアリス』の中で、このあとに続く言葉は「きみはどこにもいない」。

“胡蝶の夢” を彷彿とさせる循環構造の『円環の廃墟』を最初に読んだときには、退廃と虚無感が漂う詩的な文体で描かれる永劫回帰の哲学に感傷的になったものですが、この度は、ある意味これを “仮想現実小説” として読んでしまった。
なぜなら「魔術師」と呼ばれる男が、夢というバーチャル空間に閉じこもって、架空の「息子」創造しようと試みる話なのだから。
夢の中で作られた架空の肉体、魂を与えられ、教育を施され、独立して父の手を離れながらなお父を栄養として生き続ける実体のない息子はまるで、データをもとに生成され、OSをインストールされてアノテーションを受け、ネット上に放たれたAI人間、オリジナルを超えて永遠に生き続けるデジタルクローンそのもの。
さらに、新しいデバイスにアップデートされるかのごとく、定期的に焼かれる炎の神殿。そして、炎が作用しないことで魔術師は己も幻影=デジタルヒューマンであると気がつくというオチ。
思考も創造もバーチャルな領域で行われるこの話は、我々自身があやふやなマーヤである示唆であり、シュミレーション仮説の概念そのものでもある。
たしかに、この現実世界が仮想空間ではないという証拠はどこにもない…。

そんな突飛な想像はさておきとして、虚無感などというロマンティックな感傷も所詮は実体という幻想へのこだわりにすぎない。
そもそも、実存がどれほどの問題なのか、だ。
実体がないことは、虚しいのではなく、軽やかであるかも知れない。
炎によって焼くことのできるものを作らねばならない理由はなく、創造の情熱、それだけあれば良いのだ
それに、彼がきみを夢見ることをやるめることなどあり得ない。
なぜなら彼は実体ではなく、永遠かつ無限の存在なのだから。


『バビロニアのくじ』


バビロニアという国家において、すべての決定は、くじ引きによってなされる。
奴隷になるも、無罪になるも、すべてくじ引きで決まるという究極の「ガチャ」。
くじ引きは公平を期すため、くじのためのくじがあり、そのまたくじがある、というように、どこまで遡ってもなお決定はくじに由来する。
このように、何の故意も反映されることのない、完全なる偶然による決定がこの国家の唯一の法である。また、くじを統括するのは「講社」で、その存在を誰もが認識しているが、実際に「講社」を見たものは誰もおらず、実在するのかもさだかではない。

こう書かれると、何やらとんでもないディストピアのようだが、因果の不在という混沌、それはこの現実の世界そのものの姿だ。
実際、この地上では、膨大な運動量によって生み出された大小さまざまな因果が絡み合い、個々の出来事がいったい何の因果によるものなのかを特定することなどは不可能であり、したがって因果は無いに等しいといえるだろう。
幸運にも不幸にも何の根拠もなく、そこには理不尽な“運命”だけが存在するのだ。たとえ運命の決定に、神の介入があったとしても、それは知りようもない。

バビロニアが発明したくじは、考えても仕方がないことはすべてブラックボックスに入れてしまおうという秀逸なシステムである。
現実の世界にも、あらゆる領域に似たようなシステムが存在していて、それぞれブラックボックスをどんどん巨大化する方向で動いているように思う。
大いなるものの意思決定の過程(たとえば、膨大なデータをもとにAIが解を導き出すまでの計算式など)を、知ろうとすることは極めてナンセンスだ。


『バベルの図書館』


狭いホールを介して無数に連なる六角形の部屋。果てなく続く螺旋階段。
無限の宇宙であるその “図書館” の回廊を埋め尽くす本棚には、存在しうる限りの本が所蔵されているという。
原書にして僅か11ページという中に圧縮された壮大なコンセプトと鮮烈なイメージによって、あらゆる方面でイマジネーションを掻き立ててきた『バベルの図書館』。この作品最大のステートメントは、「すべての本は、すでに書かれている」ということではないかと思う。

この図書館にあるすべての書物の体裁は、1ページにつき320文字が記された全410ページ。23のアルファベット文字にコンマとピリオドを加えた25の記号のみを使用して書かれている。この条件で可能な限りの配列の組み合わせの書物のすべてが、図書館の中に存在する。
同じ書物こそないとされているが、その原理からすれば、どの書物にもどこかの一字が違うだけのほとんど同じ類似の書物が大量に存在することになる。
書物の総数は天文学的数で「ほぼ無限」。そのほとんどは意味のない文字列が並んでいるだけの代物であるが、裏を返せばどんな意味をなす物語も存在しうることになる。ゆえに、いわゆる “無限の猿の定理” のように、広大な図書館のどこかには、図書館の住人たちが「弁明の書」と呼んで探し求める真理が記された書物が存在すると信じられている。
つまり、すべての出来事は書物の中にあらかじめ書かれている。図書館の住人の人生に起こるどんなことも、図書館の歴史も、すべての可能性、すべての未来は書物の中にすでに言語として存在しているのである。

この「すべての本は、すでに書かれている」ということについては、ボルヘス自身の作家としての絶望ととることもできるが、もっと全体的な示唆であるような気がしている。
語り手によれば図書館は宇宙で、神によって作られた。
「バベル」が象徴するものは言語と混沌だ。
すなわちバベルの図書館とは言語の宇宙。そして「言語」とは「情報」である。

さてここで、マルチバースとホログラフィック理論を思い出してみてほしい。
ひとつの思考実験をしてみよう。
図書館はマルチバースにおける “泡宇宙”、そして、「ほぼ無限」の蔵書は、ホログラフィック理論における投影情報とみなすことはできないだろうか。
図書館の全収蔵書物は、図書館という泡宇宙で表現可能な情報のすべてであり、図書館で起こるすべては、あらかじめ書かれた筋の再生である、というように。

泡宇宙はそれぞれが独立していて、泡宇宙の中から外を観測することはできない。また、どの泡宇宙も微妙に性質や物理定数が異なっているという。
我々の現実世界は、我々の宇宙に存在する素粒子を、我々の宇宙の物理法則に基づいて組み合わせてつくられている。法則を変えることはできず、原料にも限りがあるが、組み合わせのパターンはほぼ無限。
図書館の現実は、図書館宇宙に存在する素材(25の記号)の、図書館宇宙のルールに基づいた組み合わせから、無限のパターンとしてつくられることになる。

ホログラフィック理論では、ブラックホールが飲み込んだあらゆる「物体」の持っていた情報があらゆるものの根源、イデアだった。
そもそも、物体の情報とは、素材や分子の配列や座標などの集合であり、物体そのものといえる。だとしたら、投影元の情報と投影された物体とはコインの裏表のような同一のもの、相互に関係しあうものであるはず。
そう考えると、図書館の狭いホールにかかっている一枚の鏡は、投影、もしくは情報と物体の相関関係の象徴のようでもあるし、語り手の「図書館は周期的で無限だ」という意味深な言葉からは、「図書館のどこか測りがたい場所にある墓」(=ブラックホール)に落ちていったものがゾンビのように再び現れてくる様が想像されはしないだろうか。

この図書館という閉じられた宇宙での無限ループには活路がないわけでない。
幸か不幸か、投影された物体には感情と主体性がある。
エントロピーの法則によって無秩序な状態で漂う言語の中から、何を選び取り、どのように編んでゆくかは、図書館の住人の主体的な意図によってコントロールが可能で、秩序は作ることができるのだ。
すべての本は書かれている。
しかし、すでにそこにある本の中から、どの本を選ぶのかについては無限の自由が許されているのである。たとえ大半が意味のない代物だったとしても、だ。


『八岐の園』


マルチバースの理論には、泡宇宙と並んで、量子力学から派生した “多世界解釈” というものがある。
これを現実レベルで説明すると、何かの決定のたびに宇宙は分岐して、異なる現実が生まれ、時にまったく違った結果を生じさせることもあるということになる。
人間が物理世界でとる行動の度に、それとは別の選択をした場合の世界が分岐してゆく。つまり、採用しなかった方の現実、あらゆる「if」が、知覚できないパラレルワールド(並行世界)として無限に存在しているというわけだ。

『八岐の園』は多世界解釈的なパラレルワールドそのものだ。
そもそもタイトルからして、日本語訳では八岐とされているが、原題を直訳すると「無限に道分かれする園」というようなニュアンスらしい。
矛盾する結末をむかえるサスペンス仕立てのストーリーになっていて、追われる身のスパイである主人公が逃亡過程で訪れた、ある学者の邸宅で発見する、崔奔(サイペン)という中国人が書いた小説の草稿が『八岐の園』であるという設定。
一般的には、支離滅裂で体をなさないと見なされた崔奔の草稿。しかしそれは、物語のあらゆる結末が新たな分岐の起点となり、永遠に枝分かれして物語が無限に生成されるというように、無数に分岐する未来の可能性を描いた小説であり、崔奔が完成させた迷宮そのものだと主人公は気付く。

Aという人物がいるとする。Aは過去から未来へと進む時間軸に従って小径を歩いていて、その軌跡がAの人生だ。Aがその途上で、何かの選択をするとき小径は分岐する。その度に別の選択をした場合のAの人生が発生する。ゆえに、歩くAは常に連続的でありAにとって小径は一本で、Aのルート上には唯一のAしか存在しないが、もし時間を取り払ってランダムに観測したならば、同時に別のルートを歩く多様な無限のAの姿を確認をすることができるはずだ。
Aが歩くルート上においては、過去に分岐して発生した別のルートを歩くA’と交差したことのあるBと出会うこともあるだろうし、A’’と交差したB’と遭遇することもあるだろう。だから、AとBはある場面では友であり、別の場面では敵でもあることが可能となるのだ。

ニュートンやショーペンハウアーが信じた「均一で絶対的な時間」の概念では、荒唐無稽、矛盾だらけの原稿の雑然とした草稿にすぎないとされる崔奔の『八岐の園』は、パラレルワールドのスケッチであり、分岐し、収斂し、並行し、交錯しながら反復するボルヘスの自身の小説と入れ子になった物語宇宙であるのだ。


『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』


『伝奇集』の冒頭に配されたこの物語は、個人的に最も好んでいる話。

発端は、偶然に発見された、百科事典のとある版(海賊版)にだけ記載のある「ウクバール」という国家についての項目。
かつて小アジアの地域に存在したとされるウクバールの言語や地理や歴史など、いかにも信憑性のありそうな記述は、何者かに捏造されたもので、ウクバールが架空の国家であることはすぐに明らかとなる。
しばらくの間、この件は手の込んだいたずらにすぎないと思われていたが、とある人物の遺品として発見された「トレーン」に関する書物によって事態は急展する。
トレーンとは、ウクバールの文学の中に登場する天体(架空の中の架空の存在というややこしいもの)であり、その書物は、トレーンの文化、科学や地理や歴史、数学、芸術、哲学などについて詳細に記された『トレーン第一百科事典』の第11巻だったのだ。
その内容は綿密で圧倒的、首尾一貫した秩序体系を持つものであったので、そのあまりに大掛かりな空想世界の創作を、いったい誰がどのように行ったのか、しだいに世間で憶測がされはじめる。
トレーンの世界観の完成度は驚愕に値するもので、トレーンの学説を研究する学者まで現れ、徐々に、一元的な完璧な観念論が支配するトレーンの哲学、空間を定義しないトレーン人の宇宙認識が明らかになってくる。
このように、架空の存在がリアルな日常空間にじわじわと侵食し、ついにはトレーンの「物品」が、現実の世界に実際に出現するまでになる。そして、やがては現実はトレーンに凌駕されてしまう。
語り手が、現在の言語や価値観はいずれ、すべてトレーンのそれに書き変わるだろうと確信するように、トレーンとの接触によって世界は崩壊するのである。


話の要点はこうだ。
まず、トレーンの存在を認識する事件がある。
次にトレーンに関する知識が提供される。
知識が人々のあいだに浸透し、共有され、思考されることで、しだいにトレーンについての観念がつくられる。
そして、最終的には観念が現実に実際のトレーンを形成してしまう。
ここには、観念によって現実世界が書き変わるという示唆がある。
あるいは、この『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』という物語は、それまでの世界が、新たに知覚されたパラレル世界へ移行してゆく “パラレルシフト” の物語と読むことができる。

飛躍した話と思うなかれ。
それは我々の現実の世界でも起こり得る。いや、ずっと起こり続けていることで、いまこの瞬間にも進行していることではないだろうか。
常に進化しながら新しい常識を受け入れてきた人類の歴史は、緩やかなパラレルシフトとも言えるからだ。 
そして、ゆっくりと長い時間をかけて行われてきた新世界へのシフトが、現在、テクノロジーの急速な発展によってありえないほど加速しているように思う。

近年の我々の生活の変化は正直やばい。
高度なデジタル機器を使いこなし、さまざまな制約から自由になりつつある。
コミュニケーションにおいても、何かをつくることにしても、すこし前からすれば超能力でしかないようなことを、たとえばスマホを通して誰もが普通にやっているし、AIの進化もやばい。ついこの間まではオカルトとみなされていたようなぶっ飛んだ科学を信奉はじめ、いつのまにか多次元的な概念やスピリチュアリズムまでが日常のあちこちに侵入してきている…。
そんな日々現れる新しいツールや常識が、ひとたび受け入れられて馴染んでしまえば、あたかもはじめからそうであったかのように、誰も疑いようのないこととして定着する。急速な能力の拡張と意識のアップデートを目の当たりにしているのを実感せざるを得ない。
そして、それは、知の探求の結果として起こったことことである。


ボルヘスの小説に登場する人間たちは、いつも何かを知ろうとしていた。
トレーン学者も、図書館の司書も、魔術師も知を求めて幻想の世界でのやむない探求を試みるが、彼らは無力だ。なすすべもなく、ひたすらわけのわからない無限の宇宙を彷徨う。
ボルヘスは、そんな彼ら個人にフォーカスすることはなく、彼らを通していつも全体を書いている。全体を知ることの不可能性、知の無意味を書く。知を探めるほどに無知が、力を得るほどに無力が顕になるパラドックス、知るほど明らかになる混沌と矛盾を書く。

だが我々は、それを超える世界を目前にしているかも知れない。
なぜなら、絶えず自らの身体機能を上回るものを創って自らの代替としてきた人間は今、知能においても自らより勝るものを創り上げつつあるからだ。
人間はいずれ、知を求めることをやめるだろう
己の創り上げた己を超えるものに完服し、すべてをブラックボックスに投げ入れてしまうだろう。
そうなった暁には、かつて自然という神に祈りを捧げて生きていた古代のように、超自然化したテクノロジーという神の手中で穏やかに暮らすことになるのではないだろうか。知をアウトソーシングして、潜在的に知る真理や美のみを表現する、非合理的な芸術製造機のような存在になるのだろう。
私にはそんな未来のイメージが想像されてくる。

ということは、もう時間の問題だ。
我々の世界でトレーンがその全貌を露わすのは、たぶんそう遠いことじゃない。

この物語の中では、トレーンは明確な意図を持って、その存在を段階的に誇示しているということがことが示唆されている。
果たして、我々を新たなパラレル世界に導く何者かが存在するのかは定かではないが、人類は着々と、アーカシックレコードのどこかにある「弁明の書」が納められた棚に近づいているのは確かのような気がするし、そこに至るすべての可能な道筋は、すでに書かれているような気もする。

真理のベールは、いつも静かに、音もなく剥がされる。おそらく誰にも気付かれないままに。



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