旅と人生の記録、まとめてみた(1


今年で57歳になった。
人生後半、いや終盤?になって、「振り返り」をしつつ、記憶を記録になるようにアウトプットしていきたいと思う。

まずは自分の中心とも言える、旅の記録から。。

自分でも面白い人生を歩んでいると思うのだけど、結局「旅」が自分の生き方の中心なのだろうと思う。

順番に旅の記憶を巡っていきたいと思います。

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最初の海外は、19歳の時、フィリピンであった。(1981年)
当時18歳で大学進学に疑問を持ってしまい、社会経験がしたくて勤め始めた。

営業の仕事で入賞し、ご褒美が海外旅行だった。

今思えば短く、2泊3日位だった。それでも自力で行った海外は夢のようだった。
滞在地は、リゾート地であったが、マニラで見たスラムの子どもたちが印象的だった。

再度大学に行くことに決めて、20歳で大学生になった。

大学時代はバイクを買って、各地を旅して歩いた。
富士山に登ってから北陸、能登まで行ったこともあった。

青春18切符でもよく旅をした。

20日間位友人と二人で、車で北海道中を旅したこともあった。

いずれもほとんどは野宿。

駅やバス停、峠の廃屋にも泊まったことがある。

トラブルは殆ど無かったが、高知で泥棒にあい、家から送金してもらって新幹線で帰ったことがあった。

次の海外は、インド、ネパール。
大学卒業旅行だった。
24歳(1986年)3月2日から26日 約1ヶ月。
デリーからネパールを横断し、ダージリンからカルカッタ(コルカタ)に抜けた。

流石にインドは猥雑で刺激的だった。

帰国後赤痢で隔離。
4月1日の初出勤日。
着いた途端に、呼び出しがあった。新入社員になんの電話かと思ったが、
即刻帰宅。
自宅は消毒され、そのまま救急車で隔離病院へ。まるで漫画。
2週間隔離された。
これも旅のようなもの。。

参考までに、この年の為替
1アメリカドル 204円
ニュジーランドドル 116円
インドルピー 17円
イギリスポンド 294円
フランスフラン 26円
まだEUはないから、ユーロはない。


隔離されたときには、会社の研修でイギリス行きが決まっていた。

退院後すぐが研修旅行だったので、隔離病棟で、自主研修をして専門書を読み、ワープロを覚えた。ワープロは、液晶で3行ほど表示されるものが最新だった。

就職先は、ジョイントベンチャーの会社でジョイントの相手先がイギリスにあったので、最初にロンドン入り。
会社見学などして、その後一緒に行った顧客を連れてナポリに行く予定になっていた。
イタリアに向けて出発の日の朝、ロンドンのホテルで自分の荷物が無くなった。
数時間後に戻ってきたが、飛行機の時間がなくなり、行き先をパリに変えた。
パリはパリで楽しかったが、スリに遭った。

この時のイギリス滞在中に、チェルノブイリの原発爆発事故があった。
1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)
車の中でラジオが騒がしく事件があったのは感じられたが、何が起こったのかはわからずにいた。車の給油時にテレビニュースで初めて事故の映像を見た。
風向きがすぐに発表され、イギリス方面は大丈夫となっていた。
ニュースは騒がしかったが、原発事故も世界で初めてだったので、皆さほど実感もない様子で、市民は平常通りだった。

この年の暮れ大阪に支店を作るために、支店長として転勤になり、以後3年ほど大阪に暮らした。
慣れない関西弁に苦労しながらも、関西出身と言われるまでに関西に馴染んだ。
東海から西を受け持ったので、出張で九州など西方面各地を巡った。

大阪支店が立ち上がり、東京に呼びもどされたものの、28歳(1990)で退社した。

しばらく社会勉強をしたくて、友人の会社(編集広告企画会社)を手伝いながら、他の仕事も並行してこなしていた。

編集企画では、求人広告会社の特別なアルバイトなどを載せる編集の手伝いなどをした。
みんなが行ってみたい会社を特集し、たくさん載せるのだが、求人欄を無料で提供し、とにかくたくさん載せると、求人誌の売上が上がるいう仕組みだった。
その業務を効率化して、従業員を雇って組織化し、歩合で給料をもらったりしていた。

他に知り合いの旅行会社の手伝いもした。
その会社は、主にハワイからのお客さん(日系人が多く)を受け入れていた。
国内旅行に同行し、お客様の荷物を転送する仕事だった。
関西、九州方面2週間ほどの旅について回った。
当時はまだドルが強く、チップなども随分もらった記憶がある。
小銭を集めただけで数万円になり、下手をすると給料と同じくらいになった。

いずれにしても大阪で支社を立ち上げた経験が大いに役に立った。

どちらの会社からも社員のお誘いを受けるが、お断りして、自由な立場にこだわった。

そしてこの年、広告代理店の会社を設立した。
社員もなく、一人だけの有限会社だが、以後業態や所在地をを変えながらも、潰さずに今も存続させている。

続きます。。


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シーサン

埋没してしまいがちな記憶を、記録にしてみようとはじめたnote
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