初めてのコピーと優しい大人たち

自宅を断捨離していたら、一枚のチラシが出てきた。綺麗に折られたチラシをゆっくり広げてみると、そこには僕が初めて書いたキャッチコピーが載っていた。記憶が一気によみがえる。

大学4年、就活生の頃の話。僕は宣伝会議に完全に洗脳されコピーライターになることだけを夢見て就職活動をしていた。広告代理店か広告制作会社しか受けないと決めていた(イタい、イタすぎる。当時の自分にもっと色んな業界を受けろと説教してやりたい)。

確か大学4年の5月時点で、最大手ではないが、中堅の広告代理店の内定を2社いただくことができていた。でも、総合職というのはほぼ営業に配属されるらしいという話を聞き、僕はコピーライターになりたかったので、その内定を辞退した(イタい、イタすぎる)。

そこからは、募集しているしていないに関わらず、広告制作会社に電話をして「会ってもらえないか?」とお願いしたり、履歴書に手紙を添えて送ったりした。結構な数だったと思う。でも、なんの実績もない、宣伝会議の講座のキャッチコピーがコピーライターの全てだなどと思い込んでいるような奴は、なかなか相手にもされない。

時間だけが過ぎていく。代理店の内定を辞退しなければよかったと後悔なんかもしだす始末。内心、もうコピーライターにはなれないかもしれないと諦めかけた年の瀬。一本の電話がかかってくる。僕が手紙を送った中のひとつの制作会社の社長さんからだった。「あなたを採用することはできないけれど、面白い方だから、コピー書いてみる?」と言われた。

なんの案件なんかも聞かず、ふたつ返事で「やらせてください!」とケータイを前に頭を下げた。依頼されたのは、神奈川県・橋下駅前にある「ミウィ橋下」という駅ビルのバレンタインの催事用のコピーだった。不思議とたくさん書こう、いわゆる100本ノックのようなことをしても意味はないかもと思った。5本のキャッチコピーのシートの前に、どういう意図でこのコピーにしたのかを説明した前段、さらにターゲットなんかも想定した気がする。(当たり前のことなんだけど)

依頼を受けた10日後にコピーをメールで送ると「とてもいいですね」という返事とともに「就活がんばってください」というエールもいただいた。そして、提案した5本のうちの1つのコピーが採用された。チラシだけでなく、垂れ幕やら、ビル内のポスターなんかにも使用されていて、橋下駅に見に行ったときは小躍りした。そして、銀行の口座に50,000円が振り込まれていて、また小躍りした。今でも、その通帳に刻まれた50,000の数字は覚えている。(いろんな媒体に使用されている時点で、本来は金額が変わってくるのだが、そんなこと当時の僕はわからないし、どうでもよかった)


その後、卒業間際に、別の広告制作会社に拾ってもらい、なんとかコピーライター人生をスタートすることになる。大人の世界はとても大変で、20代はめちゃめちゃしんどかったけど、時たまあらわれる、優しい大人に僕は救われ続けている気がする。そして、僕もそんな優しい大人になりたいと思う。


新たなコンテンツの制作のために大切に使わせていただきます。何に使ったかは、noteにてご報告させて頂きます。