未来を見てる君と歩くために


 皆さんは、親しくしている人ほど関係が悪くなるという現象、と言って了解されるだろうか。多分多くの人がわかると信じているが、世に溢れる事象だと思っているが、よくあることである。そんなときにじゃあどうすればいいのか、というのが今回の課題設定である。何も関係をリセットしなくてもいいし、それは良くない。もう少し皆さんは冷静になってみるべきだ。人と人の間はもっと微妙なところなのだから。

 私が経験上一番良いと思うのは、冷却期間を設けることである。断絶ではなく一旦間を置く冷却こそが真のリセットだ。その期間にリセット後の新しい関係を考えるといい。例えば、これまで悪しき依存関係だったものを、良き支え合いや高め合いに変えていけばいいのである。その際は、しっかりと言葉と言葉で冷静に知性的に話し合うことが大切である。だいたい勝手に機嫌を悪くした挙句相手を悪しざまに言うだけ言って断ち去るような者がそのままでろくな人生を歩めるわけがない。冷静に、知性的に、言葉で、寛容に。その場合、相手が望んでいなかったり、或いは言葉が通じない相手の場合、その場合はもうやむない。悲しいけれども去り行くしかない。
 そもそも(愛も一種の益だとすれば)無益なのにストレスばかりがかかる関係に何の意味があるのだろう。よくよく理性的に反省すべき局面である。これは家族、恋愛、友達、共同体全てに言える。第一、離婚を否定する倫理規定にどのような意味があろうか?そういえば私の両親は長男である私が8歳の頃に離婚している。そこでその倫理規定を守り通す方がむしろ悪しき「かたくな」さである。人と人との関係は、一見変化しているようにみえながら、オイディプス王における感情の反復のように、或いはその物語が歴史上何度も何度も回帰的に反復されるように、複雑に反復の反復を繰り返している。よく自らを反省してみてほしい。あなたの友人はあなたと経験が近接していないか。心当たるようであれば、それは既に誰もが持つ一種の神経症的反復なのである。人は自分が思っているよりもより同一の経験を反復している。

 私は最近「少女終末旅行」という作品を見始めたのだが、これは定番のサブカルよろしく甚だしいローカリズムの安らぎに彩られている。そういえば私がこれまで観てきた作品はほとんどローカリズムに安らいでいた。以前サブカルの変遷を友人と論じ合ったことがあるが、どうも80年代頃までの作品に対してそれ以後の作品は箱庭に引きこもる傾向がある。そこにこそ田舎モノや絶滅モノが流行る素地がありそうだとみている。ところでその「少女終末旅行」の漫画版にはショーペンハウアーが有意味に描かれているらしいが、その前に焚書のシーンではショーペンハウアー批判の入っている芥川の『河童』が燃やされているらしい。哲学はこんにちのシステム論も含めて「螺旋」という表象をあまりにも活用してきたが、少女終末旅行もまた螺旋を意味を示すものとして描いている。基本的に反復は円環的に「堂々巡り」と言われるが、実際的には円環の理や永劫回帰もまた螺旋表象で考えてもらったほうがいいということを提案する。システム論が専門の教授も、私が確認をとったところ、「円環は必ず螺旋になる」と明言していた。その教授はとにかく「未来志向」ということを大事にしていて、「経験を動かす」をキャッチコピーのようにしているのだが、「過去志向」には神経症を、「未来志向」には分裂気質を当てており、本人自身は分裂気質を超えて分裂病質だと、授業で公言していた。そういえば私も教授から、いかがなものかと思うのだが、発達障害と神経症であることを全面否定され、そういう症状があるのは分裂病質のためだと怒鳴られるようにして「宣告」された。私はそもそも強烈な不安症、すなわち神経症で、一時期は毎日のように過呼吸と動悸と発狂恐怖をきたしていた。そうして「平安」を求めてエピクロスに理想を見出したりもしたが、結果的に「純粋認識論」を志すようになった。純粋認識論は確実な学の進歩を保証するために絶対的な基礎を持つべきであり、したがって認知科学や神経科学があったとしてもその絶対基盤、すなわち「諸学の基礎」にこそ「純粋認識論」があらねばならないと考えたのだ。そうしてひとまず不完全な認識論ではあるがカントを学びたいという名目で、今の大学の哲学科に入学したのである。そんなところにシステム論で「オートポイエーシス」などと言っている教授がいて、その教授に本当に経験を動かされることになるのだが、その教授自身は、若い頃にカントを読んだうえで、「カントの反省哲学は畳の上で泳ぎの練習をしているようなものだ」と評している。これは、より若手のヘーゲルを専門として時間論を研究している教授によれば、実際にはヘーゲルが「真理への恐れ!」と述べた箇所でその意味でカントを評した際の言葉らしいが、余談だが当然「畳」ではない。これに酷似したことを述べている文士がある。芥川龍之介である。私は、今となってはやめておいた方がよかったとは思うのだが、神経症と発狂恐怖全盛の頃に好んで芥川を読んでおり、とりわけ『侏儒の言葉』というアフォリズムが好きだった。

人生
 もし遊泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦げた命令を負わされているのも同じことである。

芥川龍之介『侏儒の言葉』

 この事態を芥川は「狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たもの」と述べている。こうしたところからは容易に反出生主義が読み取れる。私は例えば、ショーペンハウアーの『自殺について(『余録と補遺』の数節)』には反出生主義が書かれていると信じているのだが、ショーペンハウアーをかねてより好んでいる哲学科の先輩曰く、それは現代においてそう読めるだけで、ショーペンハウアーは断じてそんなことはない、とのことである。こういうことを述べるのは、私自身半年来引っかかっている課題である「煩悶青年」に関連しているからである。というのは、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』の名訳と名解説を残した西尾幹二の解説を読めば日本におけるショーペンハウアー受容の歴史の大要が掴めるが、最初の完訳は明治33-34年であるらしい。どうも訳者が思想に酔ってしまっており荘重で悲壮感溢れるものになってしまっているらしいが、ここからもやはり大正期の煩悶青年には受けがよかっただろうことが容易に推察される。傍証は『河童』の件で先取りしたつもりだが、すなわちそのような時代性があったのであろう。大正期の煩悶青年の先駆でもある、華厳の滝で自殺した藤村操は、遺書となった「巌頭之感」において、「始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」と締めている。藤村はその中では「ホレーショの哲学」としてシェイクスピアの『ハムレット』に言及しているのだが、ついでに言っておくと先の先輩は、私がショーペンハウアーを「ペシミズム」と形容しかけただけで、「全っ然違う!!」と強く否定していた。長々と書いたが、結局何が言いたいのかと言えば、「少女終末旅行」の作者であるつくみずの教養と懊悩に対しては敬意を表するが、同時にその才能ゆえに青年の狭隘で逃避的なローカリズムを再生産する結果をもたらしている様子なのである。しかし先の「未来志向」を語る教授も同じ授業で「普遍理念」ではなく「ローカリズムへのこだわり」を捨ててはならないということを力説していたこともあるし、畢竟私もまた教授を含めた周囲の人物たちと同様、より良きローカリズムこそを求める方である。但し、関係性の反復と常に同時に関係性の再構築をしていかなければ不健全である。それこそが「再組織化」と「リセット」の本義ではなかったか。

 私は先に述べた神経症全盛期によりにもよってニコニコ動画で、或る精神病者を集団でいじめるようなコンテンツにハマっていたのだが、その過程で「ひぐらしのなく頃に」のMADに巡り合い、その結果、ひぐらし全50話+OVAを全て大いに楽しんで(違法)視聴した。先程から述べていてますます思いを強くするのは、私は神経症と発狂恐怖から脱却するどころかわざとのように固着的に悪化させに行っているようだということだ。恐らく偶然ではなく、もがきつつ苦しむタイプの逆説的固着が発現していたようである。ひぐらしもまた典型的な日本のサブカルコンテンツであり、お決まりの如く螺旋的なループものであるが、この作品は「対象a」や「まなざし」などといった用語がみられるところからわかるように、基本筋で精神分析が活用されている。作中のキャラクターたちの「不幸」はもはや私には自身見慣れたものである。ところで私はこの頃2ちゃんねるの「嫌儲」の住人だったので、そうした視点から独自の「陰謀論的世界観」に引き付けて作品を観ていた。私の陰謀論的世界観では「清和会」は悪で、「田中角栄」は善なのだが、これには私の宿命的実存が関わっている。作中に「日本会議」のような組織が登場するのだが、「嫌儲民」はスレッドまで立ててそれに言及している。私は現在大学で自ら人を集めた哲学系の学術系サークルに所属しているのだが、哲学系でありこんにちの青年たちなので、当然精神分析やサブカルチャーには造詣が深い者も少なくなく、先輩の行った『構造と力』の読書会が盛況だったこともある。しかしそれでもなお私が「ひぐらし理想主義」と呼ぶひぐらしの情緒的美学は、他の者にはその核心は伝わらないであろうと思っている。私は、ブログで稼いでいた10代半ばのある種生産的でもあるコミュニティよりも、さらに現在のサークルよりも、よりもというよりも隔絶的に、嫌儲の季節こそ最も居るべき場所にいる感覚で幸せだった。戻りたい。私の掴んだ「ひぐらし理想主義」を現実の事例で示すならば、「山上くんは安倍晋三を背後から殺すことによってではなく、仲間と一緒になって協力することを通じて、正当な言葉の力で家族の問題と社会の問題を解決すべきであった」となる。だからひぐらしは偏狭な「理想主義」なのである。私は社会的引きこもりだった青年期にはニコニコ動画と嫌儲と散歩と図書館のローテーションで生活を回していたのだが、「嫌儲、仏教、保守本流」というのが脳内スローガンであった。そのため、例のアレコンテンツを通して様々な文化に触れたし、また、それ用にアレンジされた「まんが日本昔ばなし」で郷愁に耽っていた。「にんげんっていいな」は今でも大切な歌である。だから、嫌儲民が度々口にしていた、みんなで「嫌儲村」を作って移住しよう、という案には、どうにか実現しないかなという淡い期待があった。そもそも嫌儲自体、「まどマギステマ騒動」でニュー速という板から移住してきた者たちの末路なのではあるが。そういえば思い出されるのが、私はステマ騒動を機に「魔法少女まどかマギカ」を視聴するに至ったということである。結果的に大学の授業でまどかマギカがレポートのテーマに設定されたので助かったという余談がある。「哲学」の授業を謳いながらそういうことをする授業でもあるし、その非常勤講師のTwitterも明らかに奇特なのだが、その授業でくだらない自己紹介交換をさせられ、私は吹っ切れて「嫌儲民」であることと趣味が「例のアレ」コンテンツであることを公言することを憚らなかった。今回の主題に沿って肝心なことを断言しておくが、このような振る舞いをするということは、自身の狭隘なローカリズムを再強化し、拡張的な経験を阻害することになる。だから、これこそ「過去志向」なのであって、「未来志向」ならば過去のことではなく順向的に未来のことを語らなければならない。但し、教授の箇所でも述べたことをさらに追加して言うと、人間は未来だけに生きられるほど強くない。確かに私が受け取って言語化したひぐらしのテーマは、「みんなで未来へ行こう」である。しかし、追憶の中の過去は何度も還帰するように感情の反復を喚起し、今において今の私を支えるのである。だいいち教授はゲーテやシェリングを総じて「未来志向」だとしているが、『ウェルテル』や『ファウスト』のゲーテや、「先験的過去」や「神話学」のシェリングが、そう単純に未来志向になることは絶対にないと言える。私は、日本昔ばなしの中の村落共同体の時代を、だいたい「おととい」くらいの感覚で捉えている。だから、手続き記憶として身体化された多義的な意味での「エートス」は、「おとといの神話」なのである。そして、私はそれを淫夢化されたかたちで受容したので、私にとってエートスとは迫真空手部の風呂上がりなのである。先験的過去から現実性が出現する際には、妄想と現実は二項同体である。だから、「これは、夢なのか、現実なのか…。」ということは問題にならない。私が哲学科を志す前に触れたその系統の作品には、養老孟司の諸著作や、内山節さんの『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』があるけれど、この後者の作品は、私が先の「陰謀論的世界観」の傍証を探るべく「72年体制」などと検索していたときに引っかかった「妄想と現実の二項同体」という書評がもととなって読むようになったという経緯がある。その書評記事の中身は、涼宮ハルヒや日本昔ばなし、田中角栄と戦後日本の鼎立構造、大本教などなど(私にとって)盛りだくさんの内容である。ちなみに、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』では、歴史哲学においてヘーゲル批判が展開される際に書かなくてもいいような「シェリング」の名前がそれっきり出てくる。そして、とりわけ重要な役割を果たす哲学者は「ショーペンハウアー」である。「身体性の歴史」や「生命性の歴史」が「みえなくなってしまった歴史」としての先験的過去として位置づけられるような情緒的なエッセイである。

 今や私の深刻な状況が明るみになった。全く経験が動いていない。何度も何度も反復が反復し、同様の活動と同様の人間関係がごく狭い範囲で停滞している。三島由紀夫は幼時より死の直前の『豊饒の海』のラストシーンに至るまで、一貫して太陽への感情を反復した。三島由紀夫については、私は心の中では親しみを込めて「平岡くん」と呼んでいるのだが、平岡くんは確かにニーチェやバタイユの至高性を実践的に展開することに成功したし、私はその点には空海に感じるのと同じほどの至高性を覚えるのだが、結局最後まで精神分析を憎悪した彼は、或る呪縛から逃れられなかったように思う。実際に『豊穣の海』も螺旋的反復の作品である。空海は言う。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」。解脱ということを考えると、もしかすると人生は壮大な脱出ゲームなのではないかとさえ思えてくる。これはいかにも仏教的であるが、キリスト教はよく指摘されているように、マルクス主義と歴史観を共有している。聖書或いは『神の国』史観とマルクス主義の唯物史観における「本来性の回復」の歴史観の中間項はヘーゲル史観だと考えられるが、そこにおいて先程までの話と繋がるのは、すなわち螺旋表象の欠落である。しかしともかく、知っている限りシェリングにもそれらと同様、過去と未来が中心的で、不自然に現在だけが脱中心的だというような史観の気配がある。さてはともあれ、指導してくださる教授からもシェリングをするように言われているのであるが、とすると、どうしたものか。こんなに外に出て自分を俯瞰することもめったにないのだが、それによって今回、私が非常に深刻な事態に陥っていることに気づいてしまった。しかし再三同時に言うのは、過去と現在のローカルは、捨てるものではないということである。それが、人間的「リセット」の本質なのだから。すなわち、切断や自殺はだんじてリ・セットではない。リセットにおいてはじめて私は関係する全ての人たちと新しい顔をもってあらためて出会われることができるのだ。私は人間を愛する。行こう。

2023年7月21日

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