経験的身体の自己形成について

 他者の顔に最もよく表れるのは、その張り出された表情である。しかし実際には心にもない表情はすぐに全身体からくる違和感をもって見え透いたものとなる。これは、無意識や身体性の全経験に対して、自意識が過剰に無理をしている場合でも同じことである。



 つまり私は、これら様々な記事でハビトゥスや経験について扱ってきたが、言わなければならなかったことは、経験的身体と自意識の乖離が精神に無理をかけてしまうということである。この「自意識」は、或いはモードとして「美意識」も含まれている。すなわち、先天的な脆弱性や経験的なハビトゥスは継承されるものなので、そのうえに経験を形成しなければならない。
 通常、身体の多様さに対して、自意識やその自在さの効くところの観念的領域である「心」は、圧倒的に単純である。このことは、心が身体よりも可変性に富み、すぐに適応するところに求められる。或いは例えば、観念的な書物で自己形成した場合、身体の依って立っている大地の経験と乖離する、ということがよくあり、近代的自我の煩悶とはそのようなものだったはずである。心は基本的に価値の秩序に従うので、真善美、或いは美善真の文化的価値体系に順応する傾向をもつ。具体的に自分の身に引き比べて想像してもらえばわかりやすいが、自分だけ周囲と異なった価値観で生きるとき、常に自身は周囲からの圧迫に晒される。美と悲劇の連動体制など、普遍的にみられる美意識や知性主義の苦しさ、というのは、基本的に自意識が基本的には単独ではたらくものではなく、常に作法や行為などの、広い意味での「しぐさ」と連動していることからきている。美的であるためには、或いは知的であるためには、たんにそのような文化財の集積と感受性が心にあるだけでは足りず、それがしぐさとして発揮されなければならない。このカルチベートされた心と経験的身体の回路が十全でないかぎり、それはつねにただ自意識過剰に無理をしていることになる。恐らくこれは言語性と動作性の乖離という事態とも緊密に連動した問題であるが、経験形成なき言語が飛び交うこんにち、こうした事態は容易に起こりうる。ネットの文面で話した印象と、実際に会った際の印象が圧倒的にズレているような事態がその事例である。問題は、人は未だ天使ではなく、身体的な欲求に束縛されているという「現実」である。情報通信技術は未だ人間を身体から解放しえていない。

 そもそも生物は自意識からの垂直型の機構でできてなどいないので、美意識や知識があってもそれがほとんど表現として表れないような、哲学的ゾンビの逆のような事態もよく起こっているように思う。だからゾンビの議論に明らかなのは、クオリアや意識経験といったものの狭隘さである。なにか言語的自我やわかっているということに自身のプライドの基盤を置く人がいるが、そのような領域がごく狭いのである。

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そしてまた若い人間ほど、「自分には意識的でない部分は存在しない」という感覚が強い、言語的自我が目覚める年頃というものは大体そうだ、この感覚は範囲が曖昧な所もあり、「あまりにも世界の歴史が長くなり過ぎて、人間全員が全てに飽きている未来」というものをSFにたびたび見た。個人というものは常にそれまでの人類史を全く知らずに生まれてくるので、生まれた瞬間既に母乳に辟易していて餓死した、という新生児は居ないのだが。
現代の若者の言語的自己認識はその後、驚くべき事に「自分自身の気持ち」まで含めた人間心理を知り、やがて感情の生理的な根源へも遡る。
人間の世界像はまだ自己言及の能力不足で統合失調気味。これはいずれ作られる「完全な人型アンドロイド」にも「なくてはならない症状」だろう、我々は我々自身で思っているよりロボットに近い。
整合性や調和という、対称的である事を求め続ける「精神的美」への向性を抱えた言語的人間自我、意識的知能にとっては、「会話が上手く行って終わること」が人間的人間の「この世の価値の探求が音楽的に美しく終わりを迎えること」に当たる。

 このような面白いものを見つけたが、言葉遣いや内容からも何かの私の場末の同業者ではないかと思うのだが、例えば私は「星のカービィ」や日常系アニメにみられるような「意識承認」は、そこに何らかの誤解されてきた来歴とそれによる逆説的プライドを持つ人間には、非常な死活問題となっているように思う。

『星のカービィ スーパーデラックス』および『星のカービィ ウルトラスーパーデラックス』では「なやみのないやつ」と説明されているが、それに対しカービィ自身は少ししかめ面をしている。

 Wikipedia 星のカービィ

 私はある時星のカービィの動画を一本見てその認識の承認を満たす描写を直観した。

一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている。

ニーチェ『人間的、あまりに人間的』

 こうした、自我意識の目覚める頃の青年に人気のニーチェは、ここにみられるように、基本的態度が青年の意識承認にあることがわかる。これが「主知主義」の感覚の基本である。なお、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』や芥川の『侏儒の言葉』に代表されるような、アフォリズムと呼ばれるような作品群は、或いは時代のニヒリズムという主知主義的達観を基本にしてそこから当人の精神病質を最大限活用した、「自分洞察できます」という風情の子供だましなのであるが、いかにもそうした内容は思春期の子供でも考えつくことなので、私の知り合いの先輩のように、「うんうん、そうだよな、わかるよニーチェ」という感度で読んで、だいたいが20歳を過ぎる頃には卒業していくのである。その意味で、そうした感度で書かれた作品や私小説、さらには10代を引っ掛けるために作られたロック系の楽曲などに20代になってもその後もずっと引っかかり続けているようであれば、私の教授の言葉を借りれば「特殊な人」、すなわちなにか患っているタイプの人であろうと思う。

 表象と欲求は高次の動物においてより乖離することがわかると思う。ゴキブリの運動性に対して、霊長類などは身体性を捨ててイメージの体系の世界を開拓していった。だから、小犬がよく吠えるだけ吠えるような、或いはそれは人類が何もない砂漠や草原の遥か天上の彼方に向かって跪くようなものであるが、言語性知能と動作性知能の乖離は、例えば『聖書』を読んで言語をつうじたイメージを喚起されても、日常の只中の共同的な営みに何も活かせないような、そうした事態である。私はイメージの世界、或いは自己幻想の世界だけで満たされればそれでよいとするようなある種のグノーシス主義者ではないので、「生きられた哲学」がモードとしてなければならない。だから、たんに知識の集積やイメージの喚起で終わるのではなく、まさに日常の只中において効力があるような哲学でなければならないと思っている。そのためには、常に知識や意識や認識といった心的経験が、神経系としての身体や行為に回路として形成されなければならないと思う。すなわち、ここに要点があるのだが、人の身体の多様さを出発点にすると、そもそも一元的倫理で全てを包摂するような発想にはならない。こう言うと、だからこそ一元的倫理を設定するという声も上がるが、そうではなくて、確かに共同性のための一元的あるいは言語的倫理の設定は一面的には望ましいし要請されるのであるが、もはやこの時代性においてはほとんどの局面で個体がそれぞれに別様の、或いはその個体なりの回路を形成していくことが求められるのである。その場合、当然近代的な絶対時空のディシプリンは廃棄され、新しい経験の形成が求められるだろう。明らかに、戦後空間と戦後教育は、キリスト教なき日本社会には合わなかったと言ってよいと思う。だから例えば、そのような西方の信仰のない日本だからこそ、制度的な恋愛において告白という契約を交わすことが一般的なのだろうということは察することができる。


 最初に河本英夫教授の演習に潜った1限のことだったと思うが、その日は「感情の反復」ということでソフォクレスの『オイディプス王』が読まれた。感情でもあるが、同時に「経験」そのものが反復性であり、勉強したうえで古典の世界や、翻って人との交流などから日常を、さらに翻って自己の来歴などを、見渡すかぎり、人類は社会関係こそ異なれ、その内側では驚くほど同様の営みを反復している。だから教授は的確に『オイディプス王』を取り上げたのだろうし、その感度と教養にはハイセンスなものが感じられる。フロイトは古代ギリシアの国家的悲劇を卑近なユダヤ的、或いは近代的家庭形態に引いてきて、「エディプス・コンプレックス」を定式化したのであるが、この、悲劇や神話などのいかにも大層なものというのは、例えば身体の代わりに機械が発明されたように、過剰代替による拡大鏡効果がある。だから、反復し続ける卑近なものの投影としての神話があるならば、それを逆用して「日常の再発見」を行うというのは最も古典的なテクニックである。我々はまさに精神分析や純文学の提示する、場合によってはオカルトじみたご大層なイメージの世界に、改めて自己を発見しないだろうか。河合隼雄に会って転回を経験した村上春樹は、度々「記憶の古層」ということに触れているが、それはまさに我々の普段抑圧するいつか経験した「霹靂」なのだと思う。院進希望の学科の先輩は、口癖のように「よくあるよくある」と言っていた。抽象的な哲学書を読んでも、なにか神話的なアナロジーを語っても、「そんなことはよくあること」という感度を持っていたのである。述べた通り心は圧倒的に単純だから、まず「他者性」というよりも先に、「内面性」という虚構ほどすぐに見え透くものはない。人物評や読みがよく当たる人は各界にいるが、そうした人は物事を複雑に捉えてなどいない場合が多く、むしろここまで述べたようなテクニックを活用すれば、それなりのところまでは行けるものである。
 結局何が言いたいのかと言えば、反復する経験の類型を身体化する回路を作らなければ、それは「自己形成」という意味の「教養」にならず、ただの「教養俗物」に終始してしまうということで、いわば経験的身体の自己形成とは、人類の経験を身に着けるということなのである。

2024年1月28日





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