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【あと121日】「自由」に何を成すべきか葛藤する姿はまさに「孤独」

9月2日…あと121日で今年も終わり。

昨日は朝からラーメンを食べに行った。マツコの知らない世界でやっていた「朝ラー」の特集に触発されたのだ。我が町にも2件ほど朝ラーを提供している店があった。我が町と言いながらも、家からは車で30分ほどかかるが。豚骨ラーメンに、海苔と一緒に梅が載っている、ネギやや多めというものだった。なんだかめちゃくちゃおいしかった。夜飲んでの〆のラーメン並みの特殊な環境が生むおいしさだった。ちょっとはまりそう。

さて、昨日の続きで安部公房の「箱男」である。結論から言うと、、疲れたのでちょっと休憩することにした。決して断念ではない。一章、一章、何が書いてあるのか、誰が主語なのかを確認しながら読み進めたものの…意味不明。ネットで色々調べると、どうも章の順番を入れ替えながら読まなければ、、意味が通じないらしい?ほんまかいな?という情報もあり…なんだかなんでこの本一生懸命読み込もうとしているのかもわからなくなり、一回離れることにした。気が乗ったときに再開する。

というわけで、昨日は夕方から夏目漱石の「こころ」を読み始めた。おお…急に日本文学の大定番に飛んだな…という感じだが(箱男も日本文学の金字塔らしいですが)、そう私は元々は夏目漱石を読みたかったのだ。それは、夏目漱石が、日本の近代化から続く人々の悩みをもう明治から大正の時代にだいたい書いている、みたいな話を聞いたことがあったから。現代人の悩みは「もうその悩み漱石が書いているよ」というわけらしい。

本書を読み始めるまえにNHK100分de名著で「こころ」が取り上げられていたので、まずそちらを見た。それによれば、同書は「孤独」について書かれたものだという。つまり、「近代化が生んだ『自我』とか『自意識』が強くなると、そこに孤独が生まれる」と、カンサンジュさんが言っていた。まあ要は、家やら殿様やら身分やらに固定された武士の時代は不自由だったけど「孤独」という感情は生まれにくかったが、人々はそういうしがらみから解放されて「自由」を手に入れたことで、「孤独」にも陥った、ということだろうか。

私は武士の時代を生きていないので、しがらみなんて今の時代もあるよと思いながらも、そのギャップは大きかった時代だったのかなぁぐらいにしか思わなかった。さらにカンサンジュさんは「孤独をかみしめてないから逆に人間関係が作れない」とも言っていた。なんだかよくわからんが、まあ読んでみよう。

「こころ」のあらすじを書くと(…一応書いた方がいいですよね)、こんな感じ。

「私(青年)」という語り手が、「先生」と呼ばれる無職の男を慕い交流を綴った物語。しかし先生は慕う私に対して「自分を信用してはいけない」と言うなど謎が多い。ある時、先生は私に「遺書」を残して自ら命を絶つ。その遺書には、先生がKという親友を裏切り今の奥さんと結婚したという過去が記されていた。

同書は、三部構成、上中下に分かれている
「上 先生と私」
「中 両親と私」
「下 先生と遺書」

この日私は、この「上」の途中まで読み進めた。そこまでのストーリーは私が先生に出会うところから、私と先生と、そして先生の奥さんが親しくなっていく交流の中に先生の謎が少しずつ織り込まれている。例えば、先生が誰かの墓参りに行くがそこについていこうとする私を強烈に拒絶するシーンなどだ。その墓はKの墓なわけだが。

親しくなっていくが、その一方で先生が私を受け入れているわけではないという状態だ。そして、その最後に、私に対して先生が「私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」と言うシーンがある。前半の前半の一つの山場のようだ。先生は続けて次のように言う


自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々はその犠牲としてみんなこの淋しみを味わなければならないでしょう

今回この箇所を中心に書き写した。

ここは、まさに先ほど100分de名著でカンサンジュさんが「近代化が生んだ『自我』とか『自意識』が強くなると、そこに孤独が生まれる」と言ったことと通じる場面です。ただ単に、私があなたを信用するとかしないとかいう話ではない。普遍的に「現代」とは、誰もが「淋しみを味わなければならない」時代のだと、言っているのである。

現代は、信用関係なんて成り立たない、普遍的に誰もが孤独なのだと…そんな風に言われるといささか飛躍しているような気がしないでもない。

私なりに解釈すれば、自由であるということは、「自分の意思で選ばなければならないから孤独である」、また「逆に、相手の意思で自分が選ばれるかわからないから孤独である」と言える。

自分が何を勉強するのか、どんな仕事をするのか、どこに住み、誰と付き合うのかすべて自由であるということに、人は時に耐えられないということは実感としてわかる。自分は何がしたいのか?なんて自分探しをすればするほどドツボにはまることは誰もが経験しているのではないだろうか。

そんな「むき出しの自由」の中で、誰かを信用するということは、そら怖い。先生が言うように簡単に欺かれてしまうかもしれない、逆に自分が相手を欺くことになってしまうかもしれない。

この近代化に進む明治から大正の時代というのは、そんな「むき出しの自由」への恐れが先鋭化した時代だったのかもしれない。

ここまで考えたあとで、「この時代はどんな時代だったのか?」「夏目漱石が何を感じていたのか?」なんてことを考えていたら、江川達也の「日露戦争物語」というマンガを思い出して、本棚の奥から引っ張りだしてきた。

このマンガは、かの有名な司馬遼太郎の「坂の上の雲」のコミック化と言っていいのだろうと思うが(「坂の上の雲」を読んでいないから知らんけど…)、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破した天才参謀・秋山真之の幼少から戦争までの話を綴った物語だ。

ちなみに秋山真之と夏目漱石は大学予備門(後の東京大学教養学部)同級生。マンガの中にも学生時代の夏目漱石が登場する。またロンドン留学中の夏目漱石の苦しみと親友・正岡子規との友情も少しだけ紹介されている。

話はそれたがこのマンガの前半では、血気盛んな正岡子規をはじめとした若者たちが、西洋に追いつけ追い越せと奮闘する中で、「自分は何を成すべきか?」と悩む秋山真之の姿が何度も登場する。江戸時代最後の年に生まれた若者たちが、まだ武士社会の名残も感じながら、自分たちで「自由」に何を成すべきか葛藤する姿はまさに「孤独」にも見える。

時代の転換点で、自由を手に入れた若者が、モデルなき時代で葛藤する姿は現代にも通じるのかもしれないとも感じた。明日も引き続き「こころ」を読む予定。カンサンジュさんの本も読んでみたい。

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