今度はどのように戦争をするか

 戦争に関しては、日本では、
二度と戦争をしてはいけない
といふことで話を進めなければならないことになってゐます。
 わたしは、
次の戦争はどのやうな戦争にするか
といふ話が現実的だと思ひます。
 といふのも、戦争は遅かれ早かれ起きるとわたしは思ってゐるからです。
 ヒトが五千年くらい前から文明を築きだしたのは、突然、頭がよくなったからといふのではなく、一万年前くらゐから、妙に地球の気候が穏やかに、そして、ヒトの生存に有利な環境を提供するやうになったからだと思ひます。

 今の定説では、五万年くらゐ前、現生人類としてのヒトの脳に言語や幻想を共有する想像力が舞ひ降りてきたそうですが、それにしても、暑すぎたり寒すぎたりする地球では、人類はそれらの能力を活かして人工的な社会を造り出すことはできなかったと思ひます。
 どういふわけか、この一万年くらゐ、地球は、ヒト文明の揺りかごをゆすって微笑む母親のやうだった。だから、地球がヒトを愛してるんだと思ふ人もゐるらしい。
 
 けれども、この先、気候の変動、火山の爆発、地殻変動などによって、地球は、本来の自然の顔を見せて来ると思ひます。地球は悪魔ではないが、おそらく、ヒトにとって「都合のいい母親」でもないのかもしれない。

 少なくとも、これまでの地球史を振り返ると、一神教がGodに期待したやうな、「ヒトを他の生き物よりも愛してゐて、ヒトが生きていける大気の状態を維持し、ヒトが食べるために動植物を養ってゐる」やうな母なる地球ではないやうです。
 今は、まさに母なる地球なので、これがずっと続いてほしいです。


 けれども、この穏やか一万年の後、これまでの地球の歴史ではよくあることだった・気候変動が来たら、ヒトは食糧や居住地を求めて殺し合ひを始めると思ひます。
 もちろん、殺し合ひなんてしないで、静かに自分と自分の家族だけが餓死したり、寒さや暑さや伝染病で死んでいったりするのを甘受する人たちもゐると思ひます。
 けれども、そんなに多くは無いと思ひます。

 自分を滅ぼそうとする自然に対して、生き残るために、集団となり複雑な社会を形成して、戦ふ。自然に勝ち、これを支配することを目指して戦ふ。これがヒトの本能ですから、たいていの人は戦ひを選ぶと思ひます。

 わたしがいつも日本は特殊だと言ふのは、いはゆる縄文時代の日本列島は、自然と戦はず、なれあっても生きていける自然環境だったことです。その特殊な自然環境に集まった世界各地域のヒトたちが、のほほんと暮らしてゐるうちに、日本人となった。
 日本人は、自然と戦ひ自然を支配しようとするヒトとしては、おかしな方向に種分化した・けっこう特殊なヒトだと思ひます。ナマケモノとかコアラみたいな。こんな無防備で投げやりな種がよく自然を生き延びられるよなと不思議になるやうなヒト。

 それで、明治維新以来、日本人は「国際社会」の中に放り出されて、ほんとに困ってゐる。必死で「国際化」しようとしてる。ナマケモノやコアラがお気に入りの木から叩き落されたので、他の動物たちと並んで、全力疾走し始めた感じ。
 案外、走れるので、かへってヤバい。


二度と戦争をしてはいけない
といふ前提からは、戦争をしないための軍備を増強していくことになります。
 殴りあってゐた相手が空手を習ひだした。
 では、自分はナイフを購入する。
 すると、相手はどこかで拳銃を手に入れた。
 では、自分も拳銃をヤクザから買ってくる。
 相手は、ライフル銃を注文したらしい。
 では、自分もさうしなければならない。

 そんな感じで、軍備の増強を日本はやり出してゐます。

 戦争はこちらがしたくなくても、相手がしてくることがある。
 その時、どういふ動機で戦ふのか。石原慎太郎氏などは、
愛する人のために戦ふ
といふのが、侵略戦争をしなくなった日本人の戦ひ方だと思っていたらしい。

 この映画は、ほんとに慎太郎的な薄っぺらな人間観や国家観満載で、わたしは呆れました。そして、ずいぶんと保守派とか「私はミギとかヒダリとかぢゃなくて中道」といふ人たちに受けたらしい。

 愛する人といふのは、自分の命を引き換へにできる人だと思ひます。
 そんな人は、まあ、自分の家族くらゐだと思ひます。愛人とか恋人とかの人もゐるでせうが、それにしても、1人から、多くても数人止まりだと思ひます。
 さうすると、愛する人のための戦ひとは、その他の愛してゐない人たち全てとの戦ひといふことになります。

 たとへば、外国の兵隊が来て、自動小銃と弾薬を渡されて、「君の住んでゐる町の人たちをみんな殺したら、君と君の愛する人は助ける」と言はれたら、愛する人のために戦ふ人は、町の人みんなを殺しにいくことになります。

 愛する人のために戦ふ人が兵隊になって集まったら、全体として日本のために戦ふだらうと石原氏みたいな人は考へるのかもしれませんが、そんなことにはならない。
 兵士個人ひとりひとりにとって、愛する人はその人と関係性を確立した個人に限られてゐる。つまり、自分の命を犠牲にしてまで救ひたい人は、1人の兵士に1人から数人まで。
 そんな兵士を集めて、日本国民全員のために、身体を張って戦はせることなどできるはずがない。

 そもそも、今の日本には自分しか愛せない人がけっこうゐるのではないですか?
 しかも、愛する人のために死ぬと言っても、いざ死と直面すると逃げてしまふ人も少なくないと思ひます。
 気がついたら逃げてしまってゐた、といふのが自然だと思ひます。今の日本では死と直面する機会がありません。
 死の瀬戸際でも、この人として自然な恐怖を乗り越え、勇気ある行動を取るには、死との直面を日頃からシミュレーションしておかないと、普通の人には、無理です。死の恐怖を感じないサイコパスみたいな人でない限り。
 日々、死と親しんで、いざとなったときに勇気ある行動ができるやうに心のメンテナンスを怠ってはいけない。それが武士の人間認識でした。

 わたしたちが、自分たちそれぞれの愛する人のためではなく、日本のために戦ふとしたら、「みんな」といふ幻想が必要です。
 愛する人のためにしか死なない人は、愛してない人たち「みんな」が死んでもいい、必要なら殺すこともできます。
 これは、ヒトの在り方としては、不自然です。社会や国家が成り立ちません。
 社会や国家に暮らすヒトには「みんな」が必要です。

 「みんな」のためなら、自分の愛する人を犠牲にすることも可能になるからです。
 さっきの自動小銃を渡される喩へで言へば、町の「みんな」を救ふためには、自分や自分の家族が殺されるとしても命令を拒むといふことになります。

 日本人にとって「みんな」を象徴するのは、天皇制でした。たぶん、今もさうだと思ひます。サヨクの人なんかは認めたくないでせうが。
 天皇家の人々は「みんな」を体現してゐる。現人神ならぬ現人「みんな」です。わたしたちが社会を営み、その社会の中で暮らすために、とても大事な、共同幻想です。

 それで、あんな芸能セレブみたいになった皇室の人たちなのに、
「〇〇が~した」ではなく、
「〇〇親王殿下が~された」と敬語を使って話さないと、なにか互ひに、落ち着かない感覚を抱いてしまふのだと思ひます。

 愛する人のために戦ふ
といふお題目では、ヒトは満足して死ねない。

 トロッコ問題は、ヒトの脳に「死ぬなら、みんなのために死にたい」といふ本能が組み込まれてゐることから出て来た思考実験です。
 150人が、相手との人間関係を意識的に操作しながら付き合へる他者の数の限界だそうですが、この数だけで暮らして生きていけたら、戦争は起きない。
 社会や国家が無ければ、戦争も無いのです。
 ただし、ヒトが「人間らしく生きる」ことも不可能です。

 縄文時代には戦争が無かったさうですが、もしほんたうなら、150人を超えて、クニみたいなものを作る必要が無い環境に暮らしてゐたのだらうと思ひます。
 縄文時代が戦争の無い素晴らしい世界だと思ふ人は、150人くらゐの仲間を募って、適当な山野で縄文時代式の暮らしを始めてください。
 いろいろと、今あるものが無くて不便だと思ひますが、特に、絶対に無いのは「人権」です。


 かつての日本列島みたいな、温暖の島国でなら、今でいふ社会(大勢の人が複雑な階層に分かれた有機的集団)を作らないでも暮らせた。
 国家など必要なかった。だから、「みんなのために死ぬ」兵隊が集って、互ひに殺し合ふ必要が無い。
 
 過酷な自然と戦って生き延び、しかも集団の成員それぞれの、人権や自由なども確保するには、
民族とか国家とか、自分が現実生活で知ってゐる人の数を超えた人の複雑な機能集団が必要になる。
 これが、各個人の頭の中では「みんな」といふ幻想となる。
 150人を超えてゐるのだから、「みんな」がどんな人たちなのか、実は、まったくわからない。
 それでも、自分は「みんな」の一人だと思ってゐる。

 わたしも、自分を日本人の一人だと思って生きてゐますが、日本人うちで知ってゐる人は千人もゐないと思ひます。生まれ育った阪神間以外に、ほんたうに日本人がゐるのか、確かめたことも無い。旅行先は、広がりの無い点でしかない。日本列島のことは何も知らない。
 それでも、わたしは日本人だと思ひ込んでゐます。

 「みんな」といふ共同幻想が確立すると、
それと
帰一したり、その存続の危機には
自分の一身を投げうってでも対処することが喜びとなる。

 そのやうにヒトは出来てゐるとわたしは思ひます。

 福島原発の事故の時、原子炉建屋内に突入する「決死隊」を募ったら、その場の全員が手を挙げたと聞きます。充満した放射線により死ぬかもしれない状況でした。
 あれは、勇気がある人がたまたま集まったといふより、ヒトの「みんなのために死ぬ」といふ本能にスイッチが入る条件が揃ったからだとわたしは思ひます。
 或る地域の原発一つを救ふためだったら誰も行かなかったでせう。

 「みんな」の生活がめちゃくゃになる、「みんな」が死ぬかもしれない、日本どころか、世界の危機だ、と切実に感じたから、誰もが躊躇なく放射線の中に突入することを自発的に選んだのだと思ひます。


 この長い記事の結論は、つぎのことです。
 戦争は、いつかは起きる。
 その時、わたしたちに「みんな」があるなら、つまり国家とか日本とかいった共同幻想を持ってゐたら、わたしたちは戦ふ。殺し合ひに挑む。

 では、どうやって戦ふのか?
 どれくらいの人が死ぬまで戦ふのか?
 
そして、次の戦ひで死ぬのはどんな人たちのなのか?(前の戦争では原爆によって戦闘員以外の老若男女もすべて殺された)

 それをしっかり考へておくべきだと思ひます。


 戦争をしないための軍備、などと言ってゐて、
日本人も日本の軍人も本気でそう思って軍拡してゐるとバレたら、中国もロシアも北朝鮮も、中東の国々も、すぐに日本の侵略を始めるでせう。

 だって、戦争をしないための軍備といふのは、
「それ以上近づいたら撃つぞ。弾は入ってるんだ。安全装置も、今、外した!」
と叫びながら、
絶対に戦はない、二度と殺さないと誓った平和主義者が構へる拳銃と同じだからです。
 絶対に撃たないとわかった相手が持つ拳銃には、誰も、それを武器として受け取る必要がありません。弾の入ってゐない拳銃、それどころか、玩具の拳銃と同じなのです。

 その玩具の拳銃に充てる予算が増えたといふので、喜んでゐる日本人がゐるのは、わたしは、ちょっと不思議です。自衛隊が国民向けにやってゐる軍事ショーでいろんな兵器を見に行って楽しめるからでせうか?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?