映画、漫画、文芸評論家

映画は、最初、あるものを写すといふより、それまで言葉によって想像力に訴へて、読んだ人が頭の中に展開してゐたイメージを、なんとか再現しようとしてゐた。
 映画を観る人は、自分の想像力を放棄して、映画に想像を任せて、それを視たときの刺激を享受してゐる。

真っ白な雲を貫いて、金色の龍が顕れた。
 これを読んだ人は、それぞれ頭の中で、雲も龍も、自分で想像しなくてはならない。想像といふ創造作業に取り組まなければならない。

 横着な人は挿絵を求める。
 だが、それでも、挿絵の無い部分は、どうしても自分で想像しなくてはならない。そんな想像もしんどい人のために、漫画が現れた。
 わたしはかつては漫画家を目指したこともあるので、漫画のことは少し擁護したい。漫画は、文章と絵と、その両方が手の届かないところを補ひ合って、文だけでも絵だけでも、そして映画では全く表現できないことがらを描かうとする試みだと思ふ。
 だが、ただ受け身で、もっぱら刺激を受けるだけで、能動的に思索もしない、努力して想像力を駆使することもしない、受動的に、まったくの時間つぶしのためだけにも、用ゐることができるのが、漫画の悲劇だ。

 けれども、漫画を受け身に読む者ですら、コマとコマの間は、読み手としての責任で想像しなければならない。さうしないと話の流れについていけないからだ。何を読んでゐるかわからなくなる。漫画を読んでゐるときは、完全な受け身にはなれない。

 アニメは、そんな責任と労力もとっぱらってくれる。アニメを観るには、椅子にもたれてぼーっとしてゐればいいだけだ。

 映画のCGとアニメは、ともに、人が想像するだらうものは、たいていのものを映像化してしまふといふ点で、人気を二分してゐる。
 
 映画を観たら、そして、アニメを観たら、後は、その意味について語るしかない。個人のイメージ創造の余地は無いからだ。主人公の女の子がどんな顔か、それは映画が決めてしまってゐる。
 だから、映画やアニメについては、観終はった側としては、観念的な理屈を言ふことしか残ってゐない。だから、映画好きアニメファンは、理屈屋になるのは自然の流れだ。
 そんな人たちの理屈はSNSで溢れかへってゐるので、それまで紙の媒体で映画評論家を名のってきた人たちの顔色を失はせてゐる。

 これに似たことは小説でもあった。
 小説を読んで理屈を言ひたい人のために、文芸評論家といふものがゐた。
 今もゐるやうだが、もっぱら社会批評をやってゐるやうだ。

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