男は「残忍で、破壊し、殺す」ための性


 夫に育休がつく。男性たちがかひがひしくおしめを替へ、夜泣きのときには「君は寝てなさい」と妻をねぎらひ、赤ん坊を抱きあげてあやしてくれる。

 誰ひとり手伝ってくれる人がゐないまま、出産・子育てをしてきた女性たちが、今、
やっと時代がまともな方向に向いて来た
と感じるのは当然です。

 都市化した社会では、女性ひとりが、妊娠期間・出産・子育て、それから学校教育時代まで、ぜーんぶ、責任を負はされてきました。
 これは、人類の歴史からみると、異様な子育てだった、といふことを別の記事でも触れました。

 ヒト科のヒトの子育ては、共同保育。
 これは、ヒトが共食☆することと同じくらいヒトの根本的な特性だと思ひます。

☆共食
家族や仲間が食卓を囲んでコミュニケーションを取りながら食事をすること

 ただし、このヒトの共同保育は、次の内容です。
①母子の絆を中心にする
②母の血縁の女性、母の友人の女性が参加する

 男は参加しない。
 最近は、赤ん坊を抱くと男性もオキシトシンが出て、といふことで、保育に性別は関係ない、オキシトシンがでるかどうかだ、みたいな科学主義も出て来てますが、オキシトシンなんて、赤ん坊でなくても、出ますよ。

 保育は女性の役割、と書いたら絶対怒られるので、保育は女性にしかできない、と書きます。
 これは、妊娠出産は女性にしかできない、といふことと同じです。

 このことをもって、男性は知らん顔していいのだといふ話になると、それは間違ってゐます。
 保育は女性にしかできないが、男性は女性に指示されて手伝ふことはできる。
 ただ、わたしとしては、その手伝ひがおしめを替えるとか抱っこするとかいふことになってしまふのは、間違ってゐると思ひます。

 さういふこともしていいですが、本来は、母の周囲に複数の女性がゐて、その中の誰かが手伝ふことだと思ひます。

 なんで、そこまで、男性を保育から遠ざけようとするのか?
 一番の理由は、愛着形成のことですが、ここでは触れず、男性論に行きます。

 それは、男性は女性と違ふ、と思ふからです。

 男性はホルモンシャワーを浴びて、本来女性となるはずの胎児を無理やり変形させて作り出した、改造人間なんです。
 進化といふマッドサイエンティストが造り出した、天然フランケンシュタインみたいなものなんです。

 男性は、残忍である。
 男性は、戦ふ、破壊する、傷つける、殺す。

 そのために造り出されたのです。

 そして、その男性は、女性とペアボンドを作る。一対一の男女の絆を作る。
 つまりは、「夫」になる。
 
 「夫」の役目。
 自分がペアボンドを作った女性を、他の男性の性的攻撃から守ること。
 自分の妻に、他の男が色目を使ったら、夫はただではおかない。それを見て見ないふりをする男は腰抜けです。

 満州での実話。
 ソ連軍が、目につく民間人に片っ端から機関銃を乱射しながら侵攻してきた。
 家に押し入って来る。家族の中に女性がゐると強姦する。そのときに、女性たちが泣き叫ぶ部屋の隅で、頭を抱へて震へてゐた夫や父がゐた。

 たぶん、ふだんは、インテリで、理屈っぽいけどものわかりがよくて、すごく優しい夫や父だったのだと思ひます。
 女子供を守れるのは、必要な時には、
残忍になれ、
戦ふ、破壊する、傷つける、殺すことのできる男性です。

 ふだんは女からとても受けのいい優しい男性は、殺しに来た外敵と戦へない。大学で空手部だったといふのが自慢だけど、戦闘訓練(つまりは殺し合ひの練習)は一度も受けてないやうな人が、銃や刃物を持った男たちから女子供を守るのは無理。

 学校の軍事教練はすでにない。
 そのうへ、さらに、イクメンを褒めそやす・現代社会は、男性を完全に去勢してゐます。
 これは間違ってゐると思ひます。男性は、本来の用途として、危険な、暴力的な存在でなければならない。なぜなら、暴力性を失った男性は、女性でもなく男性でもない、自分のジェンダーを見失った存在になってしまふからです。

 もちろん、その男性の本性をそのままむきだしにして生きてゐる人は、ヤクザでしかない。
 男でありながら、同時に人間もやるといふのは並大抵の努力では達成できない。

 タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きる価値が無い
っていふ・矛盾に満ちた道徳によって、自分を縛る必要がある。

 だから、男性で生まれたからには、誰でも、
弱い者をいぢめ殺し女に覚せい剤を打ってやりまくってゐるヤクザでない限り、
男はつらいよ
といふため息が出る。

 女に生まれたかった。
 男の本音。
 それを本音と自覚できないやうに、男性が必死でまとってきたのがマチズモ☆です。

☆machismo
男らしさ。男性優位。男意気。男の誇り(勇気・強さなど)、男らしさの誇示。

 こんな男性が人の親となったら、どんなことになるのか?
 父親は、規範の象徴として子供に立ち向かふ。

 母親は無条件の愛。「私が産んだ子供はみんな私の子供」。
 父親は、承認の条件を示す存在です。
 「俺が、俺の子供に相応しいと認められる子供が、俺の子供」

 愛することのはうが、(共に死ぬことを求められない状況では)たやすい。
 承認の条件を示すことは、しんどい。いやな仕事です。


 母親はしないし、最近は、父親もいやがって、もっぱら学校にその役割を投げてゐる。
 成績と進学とかいったことを見ればわかるやうに、学校は承認の条件と承認をプログラムにした制度です。
 認証機関なんです。
 ここで認証された人が、社会人として世の中に出られるのです。

 ISO認証機関などがどうして社会に必要なのか。これが無いと製品や工場の運営、教育活動など、社会全般の活動がぐっちゃぐちゃになるからです。
 
 家庭の承認機関が働かないと、人として標準化されない、あるいは、標準から外れた人たちが、それを自覚しない、あるいは、そのはうが人間らしいと思って社会に出て来るといふことです。

 別に、それでいいぢゃん。といふことなら、何も言ふことはないです。

 父親は、家庭内の認証機関だったのですが、今は、赤ん坊を胸に抱いて女のふりをして父親の役割から逃げられる時代になったのだと思ひます。



今回のテーマの参考文献↓です( ̄▽ ̄)


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