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まだ字をおぼえないで

子どもを育てていて一番面白いとのは、自分の常識というものが自分が身につけてきた鎧だと気づくことなのではないかと思う。その常識が身につく前に、人間がどんなことを感じて何を見て何を聞いて生きているのか、その例が目の前にあるわけだ。

私自身は活字中毒で、記憶にある子どもの頃の記憶はすでに文字を読むようになってからのものが多い。だから、文字が読めなかった頃の気持ちはわからない。

今、街を歩けば、看板の文字を読まないわけにはいかない。意識せずとも意味が頭の中に入ってくるし、テレビの字幕もいちいち読んでしまう。視覚情報がとても多い。海外へ旅行に出かけて、町中が知らないアルファベットの羅列で埋め尽くされていたりすると、少し不安になる。ハングルやアラビア語の看板はわたしには何の意味も持たない。

字を読めない子どもにとって、この世の中は、どのようなものなのだろうか。私たちが読んでいる分の情報は、何に変換されて彼らに受け止められているのだろう?


ある日子どもと駅のホームにいて、その駅は緑の多い場所にあって、わたしは時刻表を見ながら電車が来るでの時間を潰していた。その横で子どもが眩しそうな目で、「風が吹いているね」と言った。

柱の近くにいたわたしはあまり風を感じていないくて、そうかなと思って子どもを見ると、視線の先には木の枝葉が揺れていて、ああ彼は遠くの枝を見てそこに吹いている風を感じたのだなと思った。

木が揺れていたら風が吹いているのだ。


ただそこにあるものを感じて、繋げて、自分の記憶に残していくことを、子どもは繰り返して生きているのだなと思った。目の前の砂がサラサラ落ちたり、濡れた砂がボトボトと音を立てたり、砂の中にはアリの巣があったり、アリの巣を埋めるとまた砂が運び出されたり、そんなことをテレビでも本でも図鑑でもなく目の前の体験で学んでいる。

知りたいと思うことを全て体験しようとしている。

知りたい → 調べる の構図は大人と同じでも、読んだり書いたり観たりするわけではないのだ。彼らは動いて、感じている。


彼らは、親であるわたしたちのことも、感じている、のだと思う。そこには近道はない。感じることは、時間をかけて、内省して、初めて自分のものになる。大人であるわたしは、知ったような顔をして実は読んだり書いたり観たりしているだけで、動いても、感じてもいなかったりする、ように思う。または昔の体験を、あたかも目の前で起きているように信じているのかもしれない。

もっと彼らに触れて、感じて、温度を分かち合いたい。彼らの方法で、わたしを感じて欲しいと思う。

時間が、足りないんだよな。と思って、フルタイムの仕事を辞めた。