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柳 宗悦 美は人間を救いうるのか   若松英輔

NHKラジオ第2放送の宗教の時間で
2024年4月から9月までが上で6回
下が6回の全12回?の放送でしょうか?

1回目の放送は4月12日ですが、らじるらじるの聴きのがしで聴くことができます。

目次

若松英輔さんは1968年新潟県生まれの批評家、随筆家。
小林秀雄関連が多いです。

さっき(4/27)本屋で見つけて、らじるで聴いてみました。柳 宗悦はいろんな趣味の関係で好きな方です。著作も多いです。

見えるものとみえないもの

目には見えない、しかし大切なものがあることを私たちは知っています。まず、人間の気持ちがそうです。信仰も愛も希望も、その本質は目には映りません。それでも人はそれをはっきりと感じることがある。

人間存在においてもっとも重要なのは、その人が身にまとっているものではなく、その人の魂の姿ではないかというのです。また、先の一節には、見えるものはいつか朽ち果てる。しかし見えないものは朽ちることがない、ということも含意されているのだと思います。

目に見えないものを見出した柳 宗悦。この一年で深く掘り下げてみようかと思います。



柳宗悦のことば

『雑器の美』『用と美』『工藝的なるもの』の三篇からその一部を引用しました。
 
 
実用のものであるからといって,それを物的なものとのみ思うなら誤りである。
『雑器の美』
 
よき用とよき美とは,叛く世界ではない。物心一如であると言い得ないであろうか。
『雑器の美』
 
用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく,美しくなるが故に人は更にそれを用いる。)
『雑器の美』
 
伝わりし手法をそのままに承け,惑うこともなく作りまた作る。何の理論があり得よう。まして何の感傷が入り得よう。雑器の美は無心の美である。
『雑器の美』
 
その地に原料があって,その民藝が発足する。自然から恵まれた物質が産みの母である。風土と素材と製作と,是等のものは離れてはならぬ。一体であるとき,作物は素直である。自然が味方するからである。
『雑器の美』

一つの器の背後には特殊な気温や地質やまたは物資が秘められてある。郷土的薫り,地方的彩り,このことこそは工藝に幾多の種を加え味いを添える。
『雑器の美』
 
あの雑器と呼ばれる器の背後には,長き年と多くの汗と,限りなき繰り返しがもたらす技術の完成があり,自由の獲得がある。それは人が作ると言うよりも,むしろ自然が産むとこそ言うべきであろう。
『雑器の美』
 
変化は作為が産むのではない。作為こそは拘束である。すべてが天然に託される時,驚くべき創造が始まる。)
『雑器の美』
 
実用こそは工藝の本質である。この性質を欠くものを工藝と呼ぶことは出来ない。だから実用性の稀薄なものは,それだけ工藝性を失ってくる。)
『用と美』
 
ある品が実用になるということは,それが「機能」を持つという意味である。機能をもつ造形品を工藝品だと定義してよい。
『用と美』
 
物も人間の心を受取るのである。性格のない物ということは考えられない。だから用いる人,用いられる物,それ等を結ぶ機能,それぞれに物心の二面が働いている。
『用と美』
 
ただ見る立場からのみ作って美しくなるか。決してそうではない。用の機能に調和せずば美しくはならない。形は主として用に堪えるための構造から発し,色は主に素材の質から発し,紋様はしばしば工程から発する。)
『用と美』

実用の機能を充分に果たすためには三つの性質が呼ばれる。
一には用に堪えるように作らねばならぬ。
二には使いよいようにせねばならない。
使いたい気持ちを起させる性質が加わるなら更によい。この第三のものは用いる悦びを指すのである。
『用と美』
 
工芸美術が全体として示す弱味は,用を軽んずる所に由来する。見るための工藝は一流ではない。用いる工藝にして始めて本格である。
『用と美』
 
なぜ簡素な単純なものが美しいか。それは働きに適した姿だからと答えてよい。
『用と美』
 
すべてが切りつめられ,なくてはならぬものが残った時,型が生まれるのである。無駄のない所まで至り尽す時,法が現れるのである。それは一切の複雑を摂取した単純である。)
『工藝的なるもの』
 
型を守るとき不自由になるのではない。型に入って一番自由に「能」が舞えるのである。「能」はあらゆる舞踊のうち恐らく最も工藝的なものである。)
『工藝的なるもの』
 
ここで藝とは何も器用事という意味ではない。また知識や思想のみでも藝にはならない。仕事に即して藝が出るのである。そこには修業と訓練とが要る。熟したもののみ工藝的なものになるのである。
『工藝的なるもの』


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