理由がなくても。

なぜこんなに慕ってくれるのか。と疑問に思う関係がある。担当でもなければ、担当グループの子でもない。それでもホームが変われば「○○に会いに行きたい」と電話をくれたり「ずっとぎゅーしてほしかった」と定期的に会いに来てくれる。「どうしたら○○に会えるか」と相談されたという話を子ども伝いに聞く。男女年齢問わず、そんな子達がいる。

その子達にとって私は一体どんなおとなだったのか。そして私は何か特別なことをしてきたのか思い返すものの、大きく特別なことをした記憶はない。子ども達に直接聞いた事がないので一度聞いてみたいところである。強いて言えば、誰も見てないところで、その子に嘘なく真剣に向き合ってきたこと、そしてその子達の家族の前でその子の味方に徹したことを思い出した。
そして、ふと思った。もしかしたら、私は子ども達にとって
理由もなく、味方でいた大人。そう映っていたのかもしれない。そう思った。

職員によっては、
担当の子にだけ思い入れを持ち、丁寧に関わる方もなかにはいる。
けれど私は担当の子はもちろん、同じ施設で暮らす子ども達一人ひとりに同じ思いで、同じ姿勢で心を向けていた。当時大舎であった施設であったが、夜の就寝前の個別時間には子ども達全員に声をかけるべく全部屋をまわっていた。


ある子は、低年齢の時お腹が痛いとトイレに篭っていた。その子がいない事に気づいた私はその子がお腹を下しやすいことを覚えていたので、トイレに様子を伺いに行った。
その子は扉を開け「おなかいたい…」と呟きうずくまった。あまりにも辛そうなその姿に、私も居ても立っても居られず「ごめんね」と声をかけ、その子の背中と腰をずっとさすり続けた。少しでもお腹を温めてあげたかった。
「もう少しいて欲しい。」その子がそう言う間、私はずっと背中と腰をさすっていた。
ホームが変わっても、そのホーム職員さんに「○○に会いたい」と言い、電話があったり私が会いに行って他愛ない話をしている。

またある子は、保護者からきょうだいと比べられる事が多かった。保護者の方が迎えにきた時、私はその子の頑張りや素敵なエピソードを伝えていた。きょうだいありきではなく、その子を見て欲しかった。そしてそのやりとりを、その子は静かに見ては、何も言わずに口をつぐみ笑顔を見せていた。
あまり人に甘えない、と言われていた子だったが、それから抱きつきにきてくれる様になった。手紙や工作を届けてくれる様になった。「○○に出会えてよかった。ずっとここの職員でいて、子ども達のこと守ってね」と卒業した時に手紙をくれた。

担当だった子とは、定期的に連絡を取る。しかし担当でなかった子との繋がりは基本担当職員が担うため、個々人の裁量に任されているところがある。

担当でない、けれど名前を覚え、あの頃を思い出しては抱きしめて欲しいと言いに来る子ども達。

子ども達は、理由があるから関わるおとなよりも、理由がないのに味方でいてくれるおとなが色濃く残るのかもしれない。
職員だから。担当だから。そんな繋がる正当な理由があったとしても、その理由にはどこか「本心ではないが、仕方なく」という色を感じるのかもしれない。

この仕事は、
理由なく、子どもと簡単に関われる仕事ではない。

でも、本当は理由なく
自分という人間のそばにいてくれるおとな。
そんな存在を子ども達は求め、理由のない温もりを感じるのかもしれない。

私たちは
子どもと繋がる事ができたこの肩書きを捨て、まっさらな自分で子どもの前に在ることができる。それが子ども達にとって、心地よさの記憶になるのかもしれない。

この仕事はただの手段である。
私はただ、あなたに出会いたかったのだ。
あなたの笑顔を守りたかったのだ。

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