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【映画】考察『リアリティのダンス』~家族という他人~


監督・出演・あらすじ


監督:アレハンドロ・ホドロフスキー
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、クリストバル・ホドロフスキー、アダン・ホドロフスキーほか

リアリティのダンス - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

あらすじ・紹介
人生は絶え間ない奇跡の連続。
世界に耳を澄ますことで、日々は魔法のようなダンスに変わる。
ホドロフスキー23年ぶりの新作は、残酷で美しい人間賛歌。


軍事政権下のチリで生きる少年はどんな夢を見るのか?
息子の死を乗り越え、ホドロフスキー監督が自身の少年時代と家族の絆の再生を描いた、魂を癒す物語。


1920年代、幼少のアレハンドロ・ホドロフスキーは、ウクライナから移民してきた両親と軍事政権下のチリ、トコピージャで暮らしていた。権威的で暴力的な共産主義者の父と、アレハンドロを自身の父の生まれ変わりと信じる母に愛されたいと願いつつも 大きなプレッシャーを感じ、また、ロシア系ユダヤ人であるアレハンドロは肌が白く鼻が高かったため、学校でも「ピノキオ」といじめられ、世界と自分のはざまで苦しんでいた…。

青い空と黒い砂浜、サーカス、波が運んだ魚の群れ、青い服に赤い靴。ホドロフスキー監督は映画の中で家族を再生させ、自身の少年時代と家族への思いを、チリの鮮やかな景色の中で、現実と空想を瑞々しく交差させファンタスティックに描く。

映画『リアリティのダンス』公式サイト (uplink.co.jp)より

ここでは、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画作品『リアリティのダンス』を題材に、文化人種宗教政治思想それぞれがもたらす混沌・混在に注目しながら、この映画を通して監督が言いたかったことについて推察を試みたい。


軍事政権下のチリ・トコピージャ


監督や舞台設定について確認しておく。アレハンドロ・ホドロフスキー(Alexandro Jodorowsky)は1927年生まれのロシア系ユダヤ人である。作品の舞台は、20世紀前半、軍事政権下のチリとなっている。

1920年代のチリは政治的な大混乱を迎えていた。度重なる政権交代ののち、カルロス・イバニェス・デル・カンポが唯一の大統領候補として浮上し、彼が第20代大統領に就任する。1929年の恐慌が世界を襲った後は、反イバニェス勢力が勢いを増したのだった。



混沌1:政治思想


アレハンドロ・ホドロフスキーの父であるハイメ・ホドロフスキーは、権威的で熱心な共産主義者として作中、描写されている。実はこのハイメ、演じるのは監督の実の息子、ブロンティスである。また、イバニェス暗殺を目論むもハイメに制止され、結局自殺してしまうアナーキストの役には、監督の末の息子、アダンがキャスティングされている。
実の息子に自らの父の役をあてたのは、息子を自らの父の生まれ変わりと信じる母への皮肉からではないだろう。息子たちにアナーキストと、共産主義者の父とを演じさせることで、絶望的で悲哀に満ちた政治的対立を描きつつも、どこか調和のある作品へと仕上げている。



混沌2:人種・身体的特徴


ウクライナから移住してきたアレハンドロ少年は、ロシア系ユダヤ人だ。色が白く鼻が高い。周囲の少年から「ピノキオ」とからかわれる様子が描写されている。だが、その彼自身は、人々に軽蔑され嫌われていた身体障碍者に対し、差別の目を向けることなく優しく手を差し伸べる。
ホドロフスキー監督制作の映画は、「フリークス」と呼ばれる身体障碍者が多く登場することが特徴である。彼の作品に対して、身体障碍者への差別的な態度を見出してブーイングが起こることもあるが、この『リアリティのダンス』によってそれは払拭されるであろう。監督にとっては、出演させることを忌避する存在ではないということだ。少なくとも監督としては、ごく身近な存在として障碍者を捉えているように感じられる。
また今回の舞台となっている中南米は、多様な人種から構成される国が多い。植民地時代、インディオと黒人、白人などが様々な形で混ざり合い、メスティーソやムラート、クリオーリョなどといった呼称が生まれたのは、まさに中南米の地である。チリのみを取り上げても、歴史的に移民の多い土地であると言える。つまりこの映画の舞台はそもそも混在を多分に含んだ地であり、アレハンドロ少年はそこへロシア系ユダヤ人の移民として、新たな混在、多様性の要素をもたらすことになるのである。



混沌3:文化・宗教


ユダヤ教徒の家に生まれ、割礼を受けているアレハンドロ少年は、人種のみならず宗教に起因するその身体的特徴から、またしても差別を受ける。
父のハイメは神はいないと断固主張する無神論者であったが、イバニェス暗殺に失敗したのち故郷を目指す道中でいつしかそれも揺らぐ。母のサラはキリスト教徒であり、ハイメの疫病を信仰によって治癒させる。海辺には「行者さん」と呼ばれる男がアレハンドロ少年に瞑想を教え、御守りを授ける。
家族の中でさえ、それぞれが、それぞれの信じるものを信じているのである。ここで気付かされるのは、家族だからと言って同じではなく、同類でさえないこともあるという事実だ。むしろ家族という遺伝的に近い人間にも、自己との間には無数の大きな乖離がある。
なおここでも、監督の実の息子のクリストバルが行者を演じている。



他人としての家族→人間賛歌


ここまでで見てきた通り、この映画の中には混在する様々な要素が含まれている。そしてそれは、監督の幼少期に彼を取り巻いていたものすべてなのだ。ホドロフスキー監督の生まれ育ったチリは当時、政治的に混乱していた。さらに彼は移民であり、宗教や人種に起因する様々な差別を目の当たりにして少年時代を過ごした。
『リアリティのダンス』はホドロフスキー監督が事故によって息子を亡くした後に制作されたものだ。息子の死を意識してか、この作品は家族の存在が特に強調されている。そもそもこの映画がホドロフスキー監督の家族を主な登場人物として描いていることもある。しかしそれだけでなく、キャスティングにも三人の息子をあてがい、音楽も実の息子に担当させている。ジョン・レノンやジョニー・デップなど多くの著名人をも魅了したホドロフスキーである。身内のみで制作せざるを得ない無名の監督ではない。したがってこのキャスティングは監督が意図して行ったものだと言えよう。そしてこのキャスティングによって、『リアリティのダンス』は他の映画に類を見ないほどの混沌を孕みつつも、安定したまとまりを示している。これは家族というものが、結びつきの強いまとまりだと主張するものではない。むしろ作中の家族は混乱しきっており、家族もまた他人に過ぎないということを我々に痛感させる。
現代社会は多様性を重視する方向へ向かおうとしつつも、宗教・政治的対立からテロや戦争が相次ぎ、少数派の生きづらさが消える気配はない。そうした状況に対してこの映画は、巨視的に見れば人類は誰もが等しく「人類」というまとまりであることを強調し、それゆえに寛容であるべきだと我々に説いているのではないか。説教じみた論調ではなく、人間賛歌的にそれが謳われていると感じた。

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