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過去は変えることができるのか? 令和時代の“砂の器”と呼びたい『ある男』レビュー

 過去は変えることができるー。そんなのはSFの世界でもなければ無理だ、とあなたは思うかもしれない。だが、平野啓一郎の同名小説を原作にした映画『マチネの終わりに』(2019年)では未来を変えることで、相対的に過去の持つ意味が大きく変わっていくことが描かれていた。ただ、福山雅治と石田ゆり子とのメロドラマとして映画化されていたため、平野啓一郎が作品に込めたメッセージ性はほとんど観客に届くことはなかったようだ。

 妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝ら実力派俳優たちが共演した『ある男』も、平野啓一郎の小説が原作となっている。自分の過去を変えようと必死でもがき続けた“ある男”についての物語だ。

 宮崎で文具店を営む里枝(安藤サクラ)の夫・大祐(窪田正孝)が事故死を遂げたことから、物語は始まる。妻と2人の子どもを残した、あっけない最期だった。大祐の葬儀を終えた里枝は、夫についての衝撃的な事実を知ることになる。

 大祐の実家は群馬にある大きな温泉旅館だったが、大祐は兄と疎遠で実家とは距離を置いていた。大祐の死から1年、大祐の兄が焼香に訪れるが、死んだ里枝の夫は「大祐ではない」と言い出した。遺影がまったくの別人だと言うのだ。

 では、里枝の夫はいったい誰なのか? 里枝がかつて世話になった弁護士の城戸(妻夫木聡)が、里枝の代わりにこの事件の真相を追う。城戸が調べると、本物の大祐(仲野太賀)も行方不明なことが分かった。大祐と里枝の夫、2人の消息を探るうちに、城戸は社会の闇へと足を踏み入れていく……。

 日本では年間8万人もの人々が失踪を遂げているという事実がある。8万人もの行方不明者たちは、みんなどこへと消えてしまうのだろうか。城戸の目線を通して、私たち観客も闇の世界の扉を開けることになる。

 本作を撮ったのは石川慶監督。長編映画デビュー作『愚行録』(2017年)では、日本社会がすでに格差社会になっていることを描き、WOWOWドラマ『イノセント・デイズ』(2018年)では、死刑冤罪というシリアスなテーマに挑んだ。妻夫木聡と三度目のタッグ作となる本作も、現代社会の暗部に迫る社会派ミステリーとなっている。

 純文学だけでなく、メロドラマ、 SF、ミステリーなど多様なジャンルの小説を発表している平野啓一郎は、NHKでドラマ化された『空白を満たしなさい』(2022年)など近年の作品では「分人主義」をテーマとして盛り込んでいる。「分人主義」とは、ひとりの人間には多面的な顔(分人)があり、その人が置かれている環境や接する相手によって、異なる顔を見せるのが自然ではないかという考え方だ。

 バブル経済が崩壊した1990年代後半以降、「自分探し」という言葉が若者たちの間で流行した。バブル崩壊、阪神淡路大震災、オウム事件……。それまでの価値観は大きく崩れ、本当の自分を求めて、多くのバックパッカーたちが海外へと旅立った。

 結局、世界各地を巡っても本当の自分を探し当てられた人はいなかっただろう。本当の自分というものはどこにも存在せず、他者と接することで初めて自分は存在することになる。人によって違う自分がいて、そのすべてが自分なのだ。そのことを明文化してみせたのが、平野啓一郎が提唱した「分人主義」だった。

 映画の中盤、窪田正孝演じる“ある男”が大祐と名乗る以前の姿が描かれる。里枝や子どもたちに見せていた優しい顔とは別人の厳しい顔だ。過酷な運命のもとに生まれ育った“ある男”は、運命に抗うように懸命にもがき、戸籍上の本名を捨てて別人としての道を歩むことを選択する。弁護士の城戸が“ある男”の過去を追っていくくだりは、野村芳太郎監督の不朽の名作『砂の器』(1974年)を思わせるものがある。同じく松竹配給の本作を令和版『砂の器』と評しては誉めすぎだろうか。

 過去を捨て、里枝と出会った“ある男”は、ささやかな幸せを手にし、束の間だが温かい家庭を築くことに成功した。里枝や子どもたちと一緒に過ごす場面が和やかであればあるほど、“ある男”の悲劇性がより強く感じられる。

 ボリュームのある原作小説のため、121分にまとめた映画は無駄なシーンがない反面、かなりの駆け足感がする。だが、原作者である平野啓一郎は完成した映画のクライマックスシーンを見て、聖書の一節を思い浮かべたという。

「もし100匹の羊がいて、1匹がいなくなったのなら、探しにいくだろう」というイエス・キリストの言葉だ。小説執筆時には意識していなかったそうだが、迷える“ある男”の物語をスクリーンで観ているうちに、少年期には理解できなかったイエスの言葉が、ふと腑に落ちたという。

 平野が語ったこのエピソードは、小説や映画というメディアは多数派の大きな声に埋もれがちな、少数派の声にならない声を拾うものであることを改めて感じさせる。

 里枝の夫だった男はすでにこの世にはいない。この事実は変えることはできない。彼の不幸な生い立ちも変えることはできない。だが、“ある男”は幸せになろうと懸命にもがき、ようやくそれを手に入れたのだ。紆余曲折した物語の終わりに、城戸と里枝はそのことを知る。

 “ある男”の生涯は、決して不幸一色ではなかった。里枝の子どもたちも大人になれば、きっとそのことを理解するだろう。子どもたちの未来こそが、“ある男”の重かった過去を変えていくことになる。

 ストリーテラーとしてブレのない妻夫木聡、死んだ後もずっと影のように存在感を漂わせる窪田正孝、生活感のある演技で物語の軸となっている安藤サクラ、3人のタイプの異なる演技が楽しめる。ルネ・マグリットの絵画「複製禁止」も印象的に使われている。2022年の邦画界を代表する良質なドラマのひとつだと言えるだろう。

『ある男』
原作/平野啓一郎 脚本/向井康介 監督・編集/石川慶
出演/妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小藪千豊、坂元愛登、山口美也子、きたろう 、カトウシンスケ、河合優実、でんでん、仲野太賀、真木よう子、柄本明
配給/松竹 Amazon Prime、Netflix、Fuluなどで配信中
(c)2022「ある男」製作委員会
https://movies.shochiku.co.jp/a-man/


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