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スポーツビジネスは「コミュニティビジネス」


「個人主義」

について書かれた日経新聞のコラムには、
次のような定義が続きます。

どうも日本人が使う「個人主義」は、困っている人を放置してそれで良しとする「selfish(利己的)」に意味合いが近いように感じられます。本来、英語で言う「個人主義(individualism)」の意味とは、集団に所属する一員としての役割や権利を相互に尊重しあう立場のことで、「私利」が「他利」に優先されるというワガママを容認してしまっては成り立たない概念です。


現代は自由と多様性の時代。

いい学校を卒業して大企業に就職すれば、
一生豊かで幸福に暮らせる

というかつてのシステムを理解できない若者が
増えてきたように思います。

昭和後期の幻想にしがみつき、

凝り固まった古い価値観で
新しい価値観を拒否する人。

過去の成功体験に執着して
既得権益を手放そうとしない人。

階層序列の意識が強くて、
目上の者に媚び、目下の者を軽く見る。

よそ者や異質なものに
不寛容で排他的。

そういった人の多くはかなりの確率で
若者世代以上、といった印象はぬぐえません。

そして突き付けられた自由と多様性。

過去の物語を否定されて、

新しい物語に適応することに
不安を感じ、悩み、恐れを抱いても

不思議ではありません。


■自由ってそもそも何なのか?

自由を手に入れたのに
不安になるってどういうことなのか?

ヨーロッパでは
16世紀から18世紀にかけて、

ルネサンスと宗教改革を経て
封建制度が崩壊、自由が市民の手に渡りました。

自由の獲得には多数の犠牲がともなっていて、
高価な買い物だったはず。

ところが自由になった人々は

孤独を感じ、痛烈な責任を感じて
苦しみ、思い悩むようになりました。

宗教や王制は、

窮屈なものでしたが、
人々にとっての拠りどころでもあったのか?

不自由だけど

何も考えずに従っていれば
ある程度の生活が保障され、一生を過ごせる。

家族や自分の生活を守る責任から
開放された状態でした。


■自由に疲れ果てた人々は、

ナチズムの全体主義に傾斜した
という過去もあります。

集団から個人主義を確立した人々は、
自由ですが心の拠りどころが必要だったのです。

ドイツでは戦後、
各地にスポーツクラブが誕生。

イングランドにはすでに、

教会や学校、工場やパブを出自とした
サッカークラブが全国各地に及んでいました。

個人主義を手にして、
自由の取り扱いに苦慮した人々は、

集団に所属することで

お互いを尊重し合って生きる術を
身につけていきました。


■弁証法

というものがあります。

対立する考えをぶつけて
あたらしいアイデアを見つけ出す方法論。

まず命題(テーゼ)Aが提示され、

次にAと矛盾する反命題(アンチテーゼ)B
が提示されます。

最後にAとBの矛盾を解決する
命題(ジンテーゼ)Cが提示。

自由は必要だ!という主張(テーゼ)は

自由は孤独と不安を生む
という主張(アンチテーゼ)をうみ、

じゃあ「拠りどころ」が必要なんじゃね?
という主張(ジンテーゼ)にたどりつき

AとBを統合しながら解決します。

自由を尊重しながら、孤独を解消する
という成り行きですね。


日本はかつて、
村落集合体が全国各地に点在し、

人々はそこで一生を終えるというシステム
が確立されていました。

村のルールで、
村の人々と助け合って食料を分け与え、

結婚して子孫を残し、余生を暮らす。

ところが高度経済成長下で、
労働力が必要になった都心部の企業は、

全国から若者を呼び寄せました。

そしていつしか村社会は崩壊し、
企業が人々の拠りどころに。

終身雇用(一生面倒みます)
年功序列(年上を敬って)
労働組合(個人を守ります)

は村落のシステムの横展開
だったのかもしれません。


さらに昨今の経済状況、

超少子高齢化社会の到来、
人口減、年金不安から、

経団連は
終身雇用や年功序列の終結を宣言。

働き方改革と自由を与えられた人々は、
どうすべきか戸惑い、

力強く前向きに生きようとする人もいれば、
孤独に不安を覚える人も少なくありません。


ヨーロッパに遅れて
日本にもようやく訪れた自由と多様性。

孤独や不安を解消するための方法論
を模索する動きもたくさん見られるようになりました。

フェスやバーベキュー、ハロウィンが盛り上がるのは

コミュニティを欲する熱狂が
個別具体的に表出した結果。

SNSにはないリアルなふれあい
人と人とのつながりを感じられる場所、

自由を迫られ、孤独や不安に苦しむ人たちが
一時でも心安らぐことができる場所

が求められています。


■そしていち早く

スポーツがコミュニティとして機能することを
無意識レベルで理解して実践してきたのが

ヨーロッパと米国社会。

ヨーロッパで進化発展した
コミュニティとしてのスポーツは

アメリカ大陸で、その価値が「言語化」され
大きなビジネスになりました。

世界経済が過去10年に成し遂げた
数パーセントの経済成長率をはるかに上回る

300%もの異次元の成長をとげた
NFLはその最たるもの。

遅れをとる日本はまだ足元にも及びませんが
それだけ伸びしろがあるという意味では

期待は計り知れません。


■ところが一方で、

欧米がその価値を証明してきた
「コミュニティ」の概念は、

日本のスポーツビジネスにおいて
うまく取り入れられていません。

競技至上主義からの脱却
に苦慮しているように見受けられます。

オリンピックしかり
ワールドカップなどにおいても、

金メダル獲得や優勝することが
競技の普及(する、みる、支える)につながる

という信念は
なかなか揺らぎそうにありません。

野球、サッカー、バスケットは依然、
競技に力点が置かれたプロモーションに終始しています。

もちろん競技の魅力、美しさ、清々しさ
を否定する理由はどこにもなくて、

競技に惹かれて虜になって
応援を続けるファンの存在は必要不可欠。

ですが欧米のように、
異次元レベルの集客と売上を実現するのであれば、

競技+コミュニティの経営感覚を持ち、

クラブの存在意義を見つめ直し、
言語化を図り、アクションプランに落とし込むという

一連の流れ、システムを構築して

今のところスポーツに関心のない人々に
スポーツのあるべき価値を訴求
すべきだと感じています。

女子サッカーやラグビーの熱狂は
あっというまに雲散霧消。

プロ野球、Jリーグ、Bリーグは
無関係と言い切れるでしょうか?


■大学院では今

コミュニティの価値と
それを言語化する意義について研究中。

そして同時に、
リアルに経営の現場にも立ち会っていて

それがこちらのプロジェクトになります。


個人主義は、
人を孤立させるものではなく、

集団の一員としての役割や権利を
尊重し合う
立場のことであり、

利他を優先することによって
成り立つ概念です。

ここのコミュニティでも、
個人の考えや行動は尊重され、

さまざまなアイデアが
具現化されつつあります。

サッカーの現場にまつわる仕事もありますが、
それ以外のアクションプランも豊富。

参加者は、個人としての考えをベースに、
他者からのアシストを得て形にしていきます。

もし興味がある方は
連絡してください。どなたでも大歓迎です。

現代社会の課題解決に
一役買う団体でもあります。


今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございました。

それではまた明日。
おつかれっした!




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