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木村哲也さん編『内にある声と遠い声—鶴見俊輔ハンセン病論集』についてのメモ③―鶴見俊輔の人物紹介

 以下の記事で木村哲也さん編『内にある声と遠い声—鶴見俊輔ハンセン病論集』(青土社、2024年)を紹介したが、この本の中には「「むすびの家」の人びと」が収録されている。この文章は鶴見俊輔がハンセン病に関わった人物を紹介したものであるが、この鶴見の人物紹介が興味深い。例として以下に小笠原登の紹介を紹介したい。

小笠原登(おがさわら・のぼる) 一八八八年(明治二十一年)七月十日、名古屋郊外甚目寺に生まれる。一九二五年医学博士となり、京大医学部付属医院副手として皮膚科に転じ、一九二六年一月かららいの診療を担当。一九四一年、助教授、一九四八年、国立豊橋病院皮膚泌尿器科医長。一九五七年国立らい療養所奄美和光園医官。一九七〇年(昭和四十五年)十二月十二日、死去。八十二歳。(中略)/ 小笠原登は、「健病不二」という理論をもっていた。(中略)僧侶であり日露戦争当時非戦論の論陣をはった幸徳秋水の影響をうけてアナーキズムを十五年戦争下においてさえもまもりそだてた兄小笠原秀実(一八八五-一九五八)の哲学につらなる考え方だった。/ 一九四〇年代の太平洋戦争下、バラック小屋のような皮膚病特別研究施設に、小笠原登は、兄秀実の弟子で大津石山の浄光寺住職石畠俊徳の助けをうけて、敗戦の日までハンセン病の治療をつづけた。(後略)

 上記で興味深いのは、ハンセン病の治療に深く関わった登の兄が幸徳秋水を通してアナーキズムに影響を受けてその影響は登にも伝わっているということが指摘されている点である。ここで鶴見はアナーキズムとハンセン病医療に「国家や人びとの外から見る視点」という共通点を見出しているように思われる。アナーキズムとハンセン病医療は一見すると関係なさそうだが、鶴見は人間関係を通してアナーキズムの水脈を掘り起こしている。鶴見の人物紹介は一見では分からない思想の連鎖を見出していくところが魅力的である。 

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