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『断腸亭日乗』でみる永井荷風と謎の男・平澤哲雄

 かなり前に以下の記事で謎の男・平澤哲雄に関して、永井荷風の日記である『断腸亭日乗』にかなりまとまった情報があり、平澤が永井とも交流があったことを紹介した。

上記の記事では、平澤に関する情報がまとまっている部分のみを紹介したが、先日皓星社さんのメールマガジンで連載されている「在野研究者のレファレンスチップス」の「第四回 Googleブックスの本当の使い方」小林昌樹に影響を受けて、Googleブックスで平澤を調べていたところ『断腸亭日乗』の別の部分にも平澤に関する記述があるらしいということが分かった。平澤が生きていた期間の『断腸亭日乗』(『荷風全集第二十一巻』(岩波書店、1993年)に収録されている「断腸亭日乗一」(1917~1926年)を参照した)を実際に確認してみると、平澤に関する以下の記述が確認できた。なお、以下の引用部分の括弧内は私の補足で日付の旧字は現代仮名づかいにあらためている。

大正十一年十月二十二日。平沢氏が中洲の寓居を訪ふ
大正十二年正月(一月)十八日。夜平澤哲雄来談。新舞踊山霊といふ曲を考案し、近日(市川)猿之助をして演ぜしむる計画なりと云ふ。
大正十二年三月九日。昼餉の後茟(筆?)を秉らむとする時突然新演藝記者の訪問を受け、感興散逸して復筆を秉ること能はず。市中を散歩す。夜平澤哲雄其妻を伴ひ来訪す。
大正十二年四月二十三日。午前草花の種を蒔く。夜中洲河岸の平沢氏を訪ふ
大正十二年五月二十三日。雨ふりつづきて心地爽かならず。机に凭りしが筆進まず頭痛岑々然たり。晡時中洲の平沢氏を訪ふ。
大正十二年八月九日。平沢生来る。山形ホテルにで夕餉をともにす。(後略)

永井の記載は、「平沢哲雄」、「中洲の平沢氏」、「平沢生」と記載は一定でないが、すべて私が調べている平澤哲雄と同一人物であると思われる。平澤の住所は、以下の記事で紹介したように有島武郎の「住所録手帖」に記載されており、その住所は「日本橋区中洲海岸入吉村方」となっている。

厳密に言うと、大正12年4月21日に平澤から南方熊楠に送付された書簡(南方熊楠顕彰館所蔵[来簡3523])では住所が「日本橋区中洲河岸八号地吉村方」となっているのでこちらが正しい住所であろう。いずれにしても、「中洲の平沢氏」は平澤哲雄のことだと思われる。「平沢生」も同時期に永井が平澤と交流していることを考えると、おそらく平澤哲雄になるのではないだろうか。

 『断腸亭日乗』から永井と平澤は、大正11年(1922年)ごろから交流があり、お互いの住居に出入りしていたことが分かる。永井によると、平澤と知り合ったのは巌谷小波が主催している木曜会であったようだが、平澤が最初に登場する1922年10月22日の少し前の木曜会が初対面であったと思われる。

 興味深いのは、平澤が「新舞踊山霊」という戯曲を書いており、市川猿之助に演じてもらおうとしていたことである。時期から考えて市川猿之助は2代目である。平澤は演芸界とも関わりがあったようだが、この作品は発表されたのだろうか。他の平澤と演芸との関連では、平澤は1922年10月29日に日本大学で行われた日本文学創刊記念講演会で「新舞踊美術論」を講演している。演芸に関しては今まで調べたことがなかったが、平澤を調べる上では今後の課題のひとつであろう。

(敬称略)

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