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第2章 ものがたり方程式(1)

第2章 ものがたり方程式(1)


東日本大震災のような大災害や、ウクライナ戦争のような悲劇の渦中にいる人は言うまでもなく、人生でなにがしかの挫折や、苦難や、喪失を味わった人は、「私の人生は、生きるに値するのだろうか?生きる価値があるとすれば、それはどこにあるのだろうか?」という、根源的な問いを自分に発することでしょう。そして、「ああ、これが現実ではなく、夢であればいいのに。」と嘆くことでしょう。

私自身が、そうであったから言うのです。ところが、ある時、嘆きのさなかに、ふと思ったのです。

「ちょっと待てよ・・・現実とは何か、私とは誰か。それは、そんなに確かなことだろうか。そんなに夢と異なるものだろうか?」

私が到達した結論は、「そんなに夢と違いはないよ」というものでした。

何を言っているのかと、あなたは思うでしょう。しかし夢の中でも、ぼやっとしていますが、登場人物があり、背景があり、出来事があり、その起承転結や一応の因果関係があり、私が何らかの感情を抱く、という点では、夢は「現実」と大きな違いはありませんよね。

ただ、夢の中では交通事故を起こしても怪我はしないし、砲弾が頭上に落ちてきても死にはしません。たいがい、そんな次の瞬間には目が覚めます。このことは、夢と現実の決定的な違いのように思えます。しかし、次のように考えてみてください。


「夢の意識の次元A」から「『現実』という次元B」へ「目覚める」ということは、BからAを振り返っている、思い出しているということを意味します。一方、「『現実』という次元B」で砲弾に当たれば、私は死にます。死後の世界があるかどうかは、私には分かりませんが、仮に「死後の世界という次元C」があったとしても、CからBを振り返っている、思い出している私を、「『現実』という次元B」にいる私は、想像ができません。しかしそれは、BからAを振り返っている私を、Aにいる私が想像できないことと、同じではないでしょうか?

つまり私が私であるということは、私がそれを意識しているということであって、それ以上でも、それ以下でも無いということなのです。そのような意味で、現実は、「そんなに夢と違いはない」のです。

1.現実と自分

この「夢と現実の違い」についての考察は、「夢と現実は同じだ」と主張したいがためのものではありません。私たちを時に不安に陥れ、苦悩のるつぼの中で魂が切り裂かれるように感じる「現実」、大災害や戦争などの「現実」だと私たちが思っているものは、私たちの外部に客観的に確固不動のものとして存在しているものではない、ということが言いたいのです。

そうではなくて、「現実」とは、私たちが目にするものや人の姿(これを「表象」Presentation、姿・かたちと呼びます)と、それらが時間に沿って現れるひとまとまりの「出来事」(Event)を、私たちが認識し、それに「意味」を与えることによって初めて意識されるものなのです。つまり現実は、表象と出来事と意味の関数だといえます。このことを数式で表すと次のようになります。

現実=「表象」x「出来事」x「意味」
×とは、単に「相互に影響を及ぼし合う」という意味です。

1時間に100ミリを超える猛烈な豪雨が、3時間続いたとしましょう。「豪雨」が「表象」で、3時間続いたというのが「出来事」です。しかし、この「表象」と「出来事」の意味は、それが起きた場所によって異なります。

日本のように普段から降水量が多く、多数の河川が入り組み、その間に何千人が集落を作って住んでいるような場所であれば、この「表象」と「出来事」の意味は、差し迫った河川の氾濫であり、大災害です。実際、そのような「出来事」が続いて起こるでしょう。だからそこに住む人々は、不安と恐怖に陥り、家を捨てて高台に避難するか、つい気になって川を見に行って濁流に飲み込まれたりするのです。

一方、同じような「表象」と「出来事」が、アフリカのソマリアの干ばつ被害に合っている地域に起こったならば、人々は歓喜して踊りだすことでしょう。

今のは、非常に分かりやすい例でしたが、今度は同じ環境、同じ文化の中で生きている、似たような立場の人であっても、同じ「表象」と「出来事」が、それにどんな「意味」を与えるかによって、全く異なった「現実」として意識される例を描いてみましょうか。

AさんとBさんは、共に大手商社三井物産の穀物輸入部門で働く、30代後半の中堅社員です。Aさんは東大法学部卒で、入社当初から日の当たるポストを歴任し、自他ともに将来の幹部候補生として認めるエリートです。一方のBさんは、明治大学商学部出身で、これまで鳴かず飛ばずの評価を得ていました。

さて、Aさんは、穀物輸入部門で期待通りの業績を挙げていましたが、ロシアによるウクライナ侵攻で、両国からの小麦の調達が困難になったばかりか、それを補おうとスポット市場で無理な買い付けをしたために、100億円近い損失を出してしまいました。そして追い打ちをかけるように、北海道の支社への転勤を命じられたのです。

Aさんは、出生コースから外れたと感じ、また東京で生まれ育った妻子から転勤への同行を拒否されたため、単身赴任先でうつ病になり、とうとう三井物産を退職してしまいました。

Aさんの代わりを命じられたのがBさんです。Bさんは、Aさんとは対象的に、家族共々大自然の元でワークライフバランスのとれた生活のできる、北海道転勤を飛び上がるほど喜び、赴任先では水を得た魚のように生き生きと働いて、農産物の輸出で大きな業績を上げたのでした。

2人にとって。北海道転勤という、同じ「表象」と「出来事」でしたが、それに「出世コースからの脱落」という「意味」を与えたAさんと、「ワークライフバランスのとれた生活」の絶好のチャンスという「意味」を与えたBさんとでは、全くもって反対の価値を持つ「現実」として受け取られたのでした。

ここで、注目していただきたいのは、そのような「現実」の受け止め方の違いが、AさんBさんそれぞれの、自己評価にも大きな違いをもたらしたという点です。Aさんは、「出世コースから脱落」した自分、三井物産で閑職に追いやられた自分、妻子にも逃げられた自分という自己認識を持った結果、自信を失い将来への希望をなくし、うつ病になってしまいました。Bさんは、真逆ですよね。幸福感が自己肯定感に、そしてたぶん自信にもつながっていったのでしょうね。

つまり、「自分が誰であるか」という自己認識は、「現実」の投影なのです。

「自分」とは、現実=「表象」x「出来事」x「意味」という式で形成される「現実」が、「この身体である私」に紐づけられたものなのです。(続く

*第2章の要約


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