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-みえないものを、みえるようにすること、しないこと-

パウル・クレー、という画家がいます。

スイスの画家で、主に、抽象画などを描いておりました。

抽象画というのは、四角や三角などの図形や、うねうねしたよくわからない線や、どぴゃーっと絵の具をぶちまけたものを、これが、アートです、と見せつける技法です。

いわゆる、テーブルの上のものを描いたり、人物の姿や顔などを描いたり、風景を描いたり、そういう絵は、具象画と呼ばれ、先の抽象画と対比される技法となります。

なので、抽象画というのは、よくわからない絵、ということになります。

パウル・クレーの言葉に、「芸術とは、見えないものを見えるようにすることである」という言葉があります。

そう言いながら、よくわからない抽象画ばかり描いているので、何が見えるようになったのか、やっぱりよくわかりません。

そして、ここからが本題です。

芸術。

広義に、音楽や文学なども含むとして。

その芸術が、見えないものを見えるようにする。

という意見には、わたしは賛成です。

例えば、Mr.Childrenなんかは、みんなが心の中で思っていたけど、なかなか言葉にできずにいたことを、さくっと平易な言葉で歌い上げてみせます。

すると、わたしたちは、そうそう、それが言いたかったんだよ。

わたしも、ずっとそう思っていたんだよ。

と、こうなる算段です。

よくある、お笑い芸人のあるあるネタなんかも。

あー、わかるわー。

それな。

という塩梅で、みんなが思っていたけど、具体的な言葉にならなかったこと、すなわち、見えないものを、見えるように、具体的な言葉に、してくれた、というわけです。

ドストエフスキーやサリンジャーなんかの文学も、あー、それ、わたしも思ってた、みたいな記述がとても多く見られますし。

最近では、「孤独のグルメ」なんかが、きっと、あー、わかるわー、それな、の典型ではないでしょうか。

と、まぁ、ここまで、賛同する意見を述べておいて、なんなんですが。

ここからが、とまを氏の本領発揮。

真骨頂です。

見えないものを見えるようにする。

と、対になるような、趣きもありつつ。

見えないものを、見えるようにしない。

という、アートに関心があります。

見えないものが見えるようにならない。

ということは、見えるようにならない、と認識できる、ということは、すなわち、見えている、と。

でも、見えるようにしない、のです。

見えているけど、見えていない。

否。

見えているけど、見えていない"体(てい)"である。

これが、また愉快な話になります。

ここで、ひとつ例え話を。

こういう話がありました。

「どうやら、ぼくには隠れファンがいるらしい」

と、わたしは、折につけ、話しています。

友人が、あるとき。

「とまをさん(仮)には、隠れファンがいるんじゃない?」

と言ってくれたことに対して、わたしがたまに友人などに漏らす話です。

すると、あるとき。

「いると思うよ」

肯定してくれる方がおりました。

「自分も、そうかもね」

「でも、それじゃ、隠れてないよね?」

「いや、隠れてるよ」

「そうなのか」

「公にしてほしいなら、公にするけど」

「やめとく……」

なんて、消極的なとまを氏。

その話なんかが、まさに、見えないものを、見えていないことにする話です。

その一件を越えてからも、わたしからは、何も見えない日々です。

否。

それから、ぼんやりと、ですけど、隠れているような気配を、それまでも、気配は感じていたけど、その気配を、少しだけ感じやすくなりました。

でも、まぁ、気配にすぎないので。

気のせい、とか、気の迷い、と、思うことにする、そんな夜も少なくありません。

でも、見えていないことにする。

という、わたしのスタンスを、そういうスタイルを、わたしは大切にしよう、と、こういう算段なわけです。

わたしの、周りには、とまを氏は、何者なのだ、という気配が少なくありません。

そこは、周りの方々に対して、あまり詮索しないようにしております。

隠れるには、隠れるなりの理由があるものだ。

と、さながら、ムーミンかスナフキンか、スヌーピーか、みたいな名言を、迷言を残しておきたい所存であります。

こうした、記事を書いてみても。

こっそり、どこかで誰かが読んでいるかもしれない。

わたしが、あの人はきっと間違っても読まないだろうな、と感じているような人がこそ、もしかしたら、読んでいてくれるのかもしれない。

とはいえ、それは、架空の話。

また、別枠のふわふわした物語です。

今夜も元気に、コーヒーがうまい。

それでは、また憂いの夜に。

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