-みえないものを、みえるようにすること、しないこと-
パウル・クレー、という画家がいます。
スイスの画家で、主に、抽象画などを描いておりました。
抽象画というのは、四角や三角などの図形や、うねうねしたよくわからない線や、どぴゃーっと絵の具をぶちまけたものを、これが、アートです、と見せつける技法です。
いわゆる、テーブルの上のものを描いたり、人物の姿や顔などを描いたり、風景を描いたり、そういう絵は、具象画と呼ばれ、先の抽象画と対比される技法となります。
なので、抽象画というのは、よくわからない絵、ということになります。
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パウル・クレーの言葉に、「芸術とは、見えないものを見えるようにすることである」という言葉があります。
そう言いながら、よくわからない抽象画ばかり描いているので、何が見えるようになったのか、やっぱりよくわかりません。
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そして、ここからが本題です。
芸術。
広義に、音楽や文学なども含むとして。
その芸術が、見えないものを見えるようにする。
という意見には、わたしは賛成です。
例えば、Mr.Childrenなんかは、みんなが心の中で思っていたけど、なかなか言葉にできずにいたことを、さくっと平易な言葉で歌い上げてみせます。
すると、わたしたちは、そうそう、それが言いたかったんだよ。
わたしも、ずっとそう思っていたんだよ。
と、こうなる算段です。
よくある、お笑い芸人のあるあるネタなんかも。
あー、わかるわー。
それな。
という塩梅で、みんなが思っていたけど、具体的な言葉にならなかったこと、すなわち、見えないものを、見えるように、具体的な言葉に、してくれた、というわけです。
◆
ドストエフスキーやサリンジャーなんかの文学も、あー、それ、わたしも思ってた、みたいな記述がとても多く見られますし。
最近では、「孤独のグルメ」なんかが、きっと、あー、わかるわー、それな、の典型ではないでしょうか。
◆
と、まぁ、ここまで、賛同する意見を述べておいて、なんなんですが。
ここからが、とまを氏の本領発揮。
真骨頂です。
見えないものを見えるようにする。
と、対になるような、趣きもありつつ。
見えないものを、見えるようにしない。
という、アートに関心があります。
見えないものが見えるようにならない。
ということは、見えるようにならない、と認識できる、ということは、すなわち、見えている、と。
でも、見えるようにしない、のです。
見えているけど、見えていない。
否。
見えているけど、見えていない"体(てい)"である。
これが、また愉快な話になります。
ここで、ひとつ例え話を。
◆
こういう話がありました。
「どうやら、ぼくには隠れファンがいるらしい」
と、わたしは、折につけ、話しています。
友人が、あるとき。
「とまをさん(仮)には、隠れファンがいるんじゃない?」
と言ってくれたことに対して、わたしがたまに友人などに漏らす話です。
すると、あるとき。
「いると思うよ」
肯定してくれる方がおりました。
「自分も、そうかもね」
「でも、それじゃ、隠れてないよね?」
「いや、隠れてるよ」
「そうなのか」
「公にしてほしいなら、公にするけど」
「やめとく……」
なんて、消極的なとまを氏。
その話なんかが、まさに、見えないものを、見えていないことにする話です。
その一件を越えてからも、わたしからは、何も見えない日々です。
否。
それから、ぼんやりと、ですけど、隠れているような気配を、それまでも、気配は感じていたけど、その気配を、少しだけ感じやすくなりました。
でも、まぁ、気配にすぎないので。
気のせい、とか、気の迷い、と、思うことにする、そんな夜も少なくありません。
でも、見えていないことにする。
という、わたしのスタンスを、そういうスタイルを、わたしは大切にしよう、と、こういう算段なわけです。
◆
わたしの、周りには、とまを氏は、何者なのだ、という気配が少なくありません。
そこは、周りの方々に対して、あまり詮索しないようにしております。
隠れるには、隠れるなりの理由があるものだ。
と、さながら、ムーミンかスナフキンか、スヌーピーか、みたいな名言を、迷言を残しておきたい所存であります。
◆
こうした、記事を書いてみても。
こっそり、どこかで誰かが読んでいるかもしれない。
わたしが、あの人はきっと間違っても読まないだろうな、と感じているような人がこそ、もしかしたら、読んでいてくれるのかもしれない。
とはいえ、それは、架空の話。
また、別枠のふわふわした物語です。
◆
今夜も元気に、コーヒーがうまい。
それでは、また憂いの夜に。
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