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-作文などについて-

今年の四月に創刊された文芸誌があります。

書誌侃侃房という出版社から創刊された「ことばと」という小説を主とした文芸誌です。

また書誌侃侃房からは、「たべるのがおそい」という文芸誌と、「ねむらない樹」という短歌を主とした文芸誌も出版されています。

「ねむらない樹」では、故人で歌人である笹井宏之氏の生前の活躍を記念した「笹井宏之賞」という短歌新人賞が行なわれており、わたしは第一回から応募しています。

結果は、何の音沙汰もないことから、お察しいただけたらと思います。

そして、今回の「ことばと」では小説の新人賞「ことばと新人賞」が創設されます。

わたしもまた、その改稿の日々を過ごしています。

この「ことばと」創刊号には、編集長の佐々木敦さんとピースの又吉直樹さん、歌手の柴田聡子さんの座談会が掲載されています。

その座談会の冒頭に、子どもの頃の「作文」との向き合い方のお話がありました。

そこで、わたしも振り返ってみました。

思えば、小学生や中学生の頃は、こういうことを書いたら怒られるかな、とか、周りの人には話したくないな、とか、こっそり自分の中だけに収めておきたいな、という思いが強烈であったため、ほとんど作文というものを、まともに書いた記憶はありません。

日記なども、ほんとうのことを書いたら読むに耐えないであろうから、楽しかったです、また行きたいです、みたいなことばかりを書き綴っておりました。

でも、今になって振り返ってみると、ほんとうに感じていたことの幾ばくかでも、(話せることだけをピックアップしたとしても)、それはそれで面白い作文になったのではないかなぁ、と思い出しています。

例えば、小学生の頃の最後の宿泊学習では、朝の挨拶のときに気分が悪くなり、それからしばらくひとりでどこかの部屋の布団に横になっていました。

そのときは、終始ずっと、延々と鳩の鳴き声に耳を傾けていて、その鳴き声の種類やパターンについて、ずっと考えていました。

また、鳩の鳴き声であると知ったのは、それからずっとあとのことで、そのときは、この鳴き声は何という鳥の声なのかな、とても面白い音の響きだな、と布団に横になり、ずっと延々と、そのことについて考えていました。

また小学生の六年間を過ごしたピアノ教室では、いつも少し時間が押していたので、ひとりで待っている時間がとても長くて、いつも決まってピアノ教室の廊下の木目のパターンを分析したり、その木目の調子を、明るさや色味などを、しみじみとピアノ教室に来る度に見つめては、その木目を観察していました。

或いは、全校生徒の集まる体育館では、体育館というのは左右対称なのかな、でも、ステージの左には放送室があり、右には時計がかけてあり、左右対称の造りだけど、厳密には対称ではないし、また放送室のマジックミラーの向こうからこちらを覗いてみたいな、とか、そういうことばかりを、いつも考えていました。

なので、多分、人前に晒してもいいことだけをピックアップしたとしても、とても面白い作文を書ける素養はあったのかなぁ、と振り返ってみると、今はそう思います。

でも、そうやって、わたしが当時の自分の思っていたことや感じていたことを、こうして言語化できるのは、今のわたしが大人になり色んな本を読むようになったからであり、あまり本を読む子どもではなかった当時のわたしではうまく言語化することはできなかったのかな、とも思います。

それから、10代の終わりや20代に入ってからも、今のわたしが言語化すると、とても面白い感覚もあるのかな、と振り返ると思います。

10代の終わりから20代の始まりにかけては、近所を散歩することが趣味だったので、そのときに眺めていた風景や記憶も、赤の他人に話せることだけを選んだとしても、また言語化したら、それはそれで面白いのかもしれません。

まぁ、何が言いたいのかというと、そういう面白いことを考えている人というのは、世の中にはほんとはものすごくたくさんいて、その多くの人は、特に言語化することもなく過ごしているから、そういう色んな人や人々の面白いことを、わたくしごととして、作家やアーティストが作品にすると、そこに共感が生まれたり、楽しみの幾ばくかが生まれるのかな、という感覚が、何よりもわたしが色んな創作をしている、一番のモチベーションであり、動機であったりもします。

そして、こういう記事も、わたしの文章に興味を持ってくれる人には、それなりに楽しんでもらえるかな、と思い、noteの記事にして書き綴ってみました。

また、もう少し頭のなかをまとめたら、執筆の作品にも生かしたりできるのかな、とも思っております。

それでは、また梅雨の匂いの揺れる夜に。

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