社会は思想を無視して心を殺す

社会人一年目のペーペーです。
「社会人一年目のくせに生意気言うな!」とか言う人、黙って欲しいです。
私は社会人の1人であると同時に1人の人間です。1人の人間のことを思いやることができない人間に対して、尊敬なんてハナからできず、話を聞くことも難しいのです。

僕は社会人として立派な人とは、まず人間として立派である必要があると思います。
人間として立派な人とはどんな人か?
いわゆる芯がある人と呼ばれる人ですが、それは言い換えれば思想を持つ人だと思います。
思想を持つ人とは、自分なりの人生の生き方、価値観を持つ人です。

思想がない人間というのは、自分の現在持つ考え方がどこから生まれたのかを気にしたこともなく、自分の考えがこれまでの環境によって植え付けられたことを自覚できていません。自分の人生が自分で切り開かれた物なのではなく、他者によって作られた物なのです。空っぽなのです。

別にこういった人生を生きてきたことが悪いというわけではありません、たとえ気づいた後でも過去は変えられない物です。
大切なのは気づいた後にどう生きるかを自分で決めることです。そこから始まる人生で、自分を満たせばいいだけです。

人生に対する思想を持たぬ人間は、他人の持つ思想を理解することができません。そして、思想があることを知らず、みんなが自分と同じ価値観を持っていると無意識に考えているか、自分の意見と合わない相手を無理やり捻じ曲げてしまおうとします。

ではなぜ思想を持たない人がいるのでしょうか?
思想を持つかどうかは、十分な想像力があるかどうかだと私は考えます。

思想を持たない人は
1.十分な想像力をそもそも持たない、持てない人
2.十分な想像力を持っているが、思想を持つこれまで必要がなかった人
の2パターンがあると思っています。

想像力とは、人が考えを持つことを理解できるかどうかです。人がさまざまな考え=思想を持っていることを理解できるかどうかです。
思想を持つ人は、自分が思想を持った時点で、その想像力を用いて人の思想を理解することができます。

1.はそもそも才能として、想像力を持たない人のことを指します。いわゆる想像力は多少はあるかもしれませんが、思想を持てるほどの想像力ではないということです。
私はなんとなく、想像力を持てるかどうかは、いわゆる才能のような、生まれ持って決まるものなのではないかと考えています。

2.はこれまで思想を持つ必要がなかった人のことを指します。誰かに否定されて傷ついた時、真に誰かの思想を理解したいと願った時、自分のリミッターを外すようにして、想像力が爆発し、思想の存在を理解するのではないかと考えます(経験談)。
思想を持つようになれば、そこから連鎖的にあらゆる思想を理解することができ、自分の世界を広げることができます。
自分なりの指針を持ち、それに従うように生きることができる。ただただ流される人生ではなく、自分のために人生を費やすことができます。
お金や時間は自分のため、自分を真に大切にしてくれる人のため、選んで使うことができるようになります。

社会に順応している人は、思想を持たない人が多く、それは
Ⅰ思想を持たないゆえに社会に順応できた
Ⅱ社会に思想を殺された
のどちらかではないかと考えられます。
もしくは
Ⅲ自分の思想やペルソナを意識的に切り替えることができる器用な人
だと思います。

自分を縛る事柄が多い社会で、思想を持つ人間ほど邪魔なものは無く、思想をもたないがお勉強ができる人間が重宝されます。
義務教育である程度それが積み上げられてきたわけですが、社会はその集大成という感じです。勘弁してくれマジで。

忙しさ、規律、マナー、時間外の飲み会、人間関係のストレス、、、
あらゆる事柄が我々の心を殺し、思想を殺していきます。
社会で生きて行く中で、理想の自分と現在の自分の乖離に苦しんだ時に、自分を強く保てればいいのですが、体と心に大きな負荷化がかかってしまうと、人は逃げることを選んでしまいがちです。
ここでいう逃げるとは、考えることをやめてしまうことです。また、感じる心を見てみぬふりすることです。

意識的に逃げるのも良くないですが、アルコールや何か他の手っ取り早い娯楽に手を出しすこともよくありません。判断力を鈍らせ、本当の自分を見失ってしまいます。
アル中とまではいかないがアルコールを手放せなくなった上司ばかりです。
自分の心が死んでいくのを感じたときは、仕事を辞めるしかないのではないかと思っています。ぺーぺーですが。
もしくは強い心を自分で持つほかありません。



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