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サイバーパンクの時代

 サイバーパンクという言葉を聞いて、あなたはどんなものを想像するだろう。

 僕が最初に思い浮かべるのは、金属骨格の義手だ。戦争や災禍で腕を失った男が、金属の骨組みで出来た剥き出しの義手を付けて薄汚れた未来都市の路地を歩いている、というイメージ。

 しかし、そういうイメージが一体どこからやってきたのかと訊かれると、これがなかなか判然としない。サイバーパンクに分類される映画はそれなりに観たことがあるけれども、ロボットの義手を使うキャラクターはそんなにいなかったように思う。

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 印象的なロボットの腕といえば。
 ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』に登場するターミネーターの腕。
 ポール・ヴァーホーヴェン監督『ロボコップ』の主人公アレックス・マーフィに接続される特殊合金製の腕。
 木城ゆきと先生の漫画『銃夢』の主人公ガリィの腕もそうだ。彼女は医者のイドに拾われて綺麗な腕を取り付けてもらう。
 ただ、いずれのキャラクターもアンドロイドやサイボーグなので、義手とは若干ニュアンスが異なるように思う。

 未来都市を歩く光景は、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』がとても印象深い。
 士郎正宗先生の『攻殻機動隊』。
 大友克洋先生の『AKIRA』。
 手塚治虫先生の『火の鳥 未来編』。
 こうしたハイテクで退廃的な未来を描いた作品から受けた影響は大きい気がする。

 おそらく、僕のぼんやりとしたサイバーパンク観は、こうした様々な作品のイメージが合わさって作り上げられたのだと思う。

 実のところ、サイバーパンクとは一体何なのだろう。
 英語の辞書を引いてみると、「サイバーパンク」はこのように記述されている。

cy・ber・punk /ˈsaɪbəpʌŋk $ -bər-/
コンピュータ科学に関連した空想の出来事についての物語、通常は未来が舞台とされている。

(ロングマン英英辞典)

 この“サイバーパンク”という言葉は、もともと小説家ブルース・ベスキが自身の著作で若者のハッカー集団を表すために作った言葉だが、時とともにこのジャンルの作品郡を示す言葉になったそうだ。

 サイバーパンクが扱われるのはSFの世界の話であるから、現在よりもはるかに進んだ科学技術が描かれることが多い。
 人工知能はもちろん、サイボーグ技術、脳とコンピュータを接続して生み出される仮想空間、時空転送装置、空飛ぶ車にホログラムの広告、そこにサイキック能力を含めてもいいかもしれない。

 僕は昔、これから先に訪れるのはきっとこうしたものが存在する未来なのだろうと思っていた。

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 現実には、『ブレードランナー』や『AKIRA』の舞台となった近未来2019年は過ぎ去り、アンドロイドも開発されていなければ、空飛ぶ車もホログラムも無く、かつて予想された未来の姿とは大きく異なるものになった。
 戦争で都市が荒廃していないことが救いでもあるけれど。

 それでも今、サイバーパンクの世界は確実に到来しつつあるということがわかる。

 ここ十数年の様子を見ると、僕たちが生きるこの世界は驚くべき速度で変化し続けている。
 誰もが手にスマートフォンを持ち、自由にテキストをやり取りし、ビデオ通話をし、電子決済をし、無線通信で音楽や映画をダウンロードして楽しみ、画像や動画を撮影してソーシャルネットワークで共有する。
 これは30年前ではあり得なかった未来の光景だ。
 ただ、そこに生きる人々にはこの光景が当たり前すぎて、そのことに気がつかないだけだ。そこがユートピアなのかディストピアなのかさえ、当事者たちには判断がつかない。

 先日、僕はOculus Goで家族のVR映像を映してみた時、「いよいよ本格的にサイバーパンクの時代がやって来たな」と感じた。
 録画されたVR映像は、現実の視覚と比べれば画質も荒く、視野の面でもまだまだ制限があるように思える。しかし、誰かの顔が近づいてくるとその距離や息遣いを感じるし、高いアングルから見下ろす映像ではその高さに恐れおののく。
 この「実際にそこにはないものを間近に感じ、本物のように認識できる」という感覚は、今までのメディアが持っていなかった劇的な変化といえる。

 いずれは、こうした技術もさらに進化して、当たり前のものとして受容されていくだろう。もしかしたら、仮想空間の中にあらゆる生活空間が設けられ、人工知能を持ったデジタルの友人や恋人や家族とコミュニケーションを取り、生活するようになるかもしれない。
 そのような光景を「本物ではない」「現実ではない」と笑う者も、今はまだいるだろう。
 しかし、テレビやPCディスプレイ、スマートフォンで鑑賞する映像作品を「本物の映画ではない」と笑う者はあまり多くない。
 1990年代から2000年代にかけて任天堂が発表してきた『ポケットモンスター』や『どうぶつの森』のようなコンピュータゲームも、未来の先駆けだったと言っていい。
 ゲーム内のAIに愛着を抱き、コミュニケーションを取って遊ぶ子供も、数十年前には存在しなかったのだから。

 サイバー技術は、人の生き方を大きく変化させる。
『攻殻機動隊』では、人間の脳を電脳化して有線や無線で脳内のデータを直接通信することが一般化しており、市民の生活の一部となっている。そのため、電脳をハックされ、記憶を操作されたり人格を乗っ取られるような犯罪も起こる。
 ドラマ『オルタード・カーボン』では、人間の意識をスタックというパーツにデータとして保存し、死んだ者のスタックを別の身体(スリーブ)に取り換えることで蘇生することができる。
 富裕層は、身体能力が高く美しい高価なスリーブを買い、定期的にバックアップとスリーブの交換をすることで何百年も生きる。スリーブを買えない貧しい市民は、蘇生を諦めるか、無償提供される年老いた在庫残りのスリーブを使うしかない。

 現実と虚構。
 生と死。
 本物と偽物。
 人間とモノ。
 正しいものと間違っているもの。
 そうした対立する概念の境界が曖昧になる。

 そんな世界の中で起こる「punk(役立たず、反抗者)とされた者の闘い」、それこそが“サイバーパンク”なのだろうと思う。
 それはまさに、今の僕たちが生きる時代そのものだ。

 幸いなことに、僕は身体を壊したり腕を失くしたりはしていないけれど、一年ほど前は、日々の仕事やストレスに悩まされ、夜眠れなくなったりすることも、突然涙が止まらなくなることもあった。
「人に優しくしよう」と嘯く傍らで人を傷つけ喰い物にする社会で仕事をして、大企業が積極的に人を騙して利益を搾取し、易々と人の尊厳が踏みにじられていく光景を毎日毎日見ているうち、心のどこかが壊れてしまったのかもしれない。
 傷だらけでボロボロの魂を抱えて残骸のように生きている人は、きっと今の世の中にたくさんいるはずだ。

 僕たちは自分自身の傷を自覚しなければならない。身体が無事だからといって、魂が傷ついていないとは限らないのだから。

 しかし、高価な義手と同様に、持たざる者が誰かから傷を癒す手段を得るのはそう簡単なことではない。

「みんなに迷惑をかけるな」「面倒なことを起こすな」「騒ぎ立てるな」「無駄なことはするな」「結果を出せ」「責任はお前が負え」と教えられ、誰にも優しさを期待できない世界では、人は自分のことだけで手いっぱいになり、自分の得にならないものには見向きもしない。
 むしろ、優しい心を持つ者は都合よく利用されて捨てられてしまう。
 そして、人から愛とか優しさというものを得るためには、その価値に見合う人間でなければならず、“サービス”という形で恩恵を受けるならば、その対価を支払わねばならない。

 金も権利も希望も何もかも失った者が、その中で生き延びるのはとても難しい。

 それでも、手近なサイバー技術で魂を補修することくらいはできる。

 誰かの声が聴きたければ、ラジオを聴こう。
 気分を変えたければ、Youtubeで何時間でも知らない音楽を聴こう。
 知識を得たければ、ブラウザで本を読もう。
 現実の人間に会えなければ、VRで誰かと会おう。
 コミュニケーションが取れなければ、ゲームをしよう。
 SNSに気持ちを書こう。
 言葉が話せなければ、文字を並べよう。
 字が書けなければ、絵を描こう。
 絵が描けなければ、画像を貼ろう。
 誰かに優しくされたら、お礼を伝えよう。

 昔は難しかったことが今は簡単にできる。
 どんなツールを使ってもいい。高性能PCでも、壊れかけのPCでも、サポートが終了したスマートフォンでも構わない。ヘッドセットが無くてもスマートフォンでVRは体験できる。
 自分にできる一番やりやすい方法でいい。そのやり方を誰に嘲笑されても気にしない。重要なのは、今手に持っている技術を使って今の時代をどう生き抜くかということだ。

 そして、今あなたがどんな環境でどんな技術を使って生きていようとも、その中で本物の愛や優しさや癒しを感じられる瞬間があるのなら、それを大切にしてほしい。
 現実だろうと虚構だろうと、本物だろうと偽物だろうと、新型だろうとジャンク品だろうと、その価値を決めるのはあなた自身だ。

 今はサイバーパンクの時代だ。
 自分の感覚を信じ、何でも使って生きろ生命。

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