子どもへの謝罪

子どもへの謝り方がわからない、という話

「“正しい”謝り方のテンプレートがほしいです」

こんなことを言ったら、不誠実でしょうか。

たとえば女性向け広告・啓発の内容が“不適切”で、多数の指摘がなされると
その広告や啓発資材の作り手は、よく
「ご不快にさせてしまったこと」に対して、謝罪をしますね。

最近では
「よくよく読んでみたら、謝罪の言葉がどこにも入ってないぞ……!?」
みたいなものもありますが、
基本的には、一応は、謝罪の体のナニかがなされますよね。
そのテンプレート的でしかない不誠実さに、
事態はより一層悪化し、不信感が増してしまうようなこともしばしばです。
そりゃそうですよね。
謝罪にテンプレートなんて、ないんです。
何がどう悪かったのか、それに対して、ではどう挽回するのか
ひとつひとつ考え、言葉と態度にしてあらわし、失った信頼は
時間をかけて回復していくしかないのですから。

「私をご不快にさせたことについてだって、もっと真心こめて謝って欲しいものだぜ!」
みたいなことを思っている私だって、それくらいのことはわかっています。

自分の非や、至らなさや、差別意識だったり暴力性だったりを認めて謝罪する、というのは
とても苦しく、難しいものですが
それをするしかない。
わかっています。

わかってはいるのですが、
それをどうやって示し、どう伝えたらいいのか、わからない相手がいます。
子どもです。
現在、3歳です。

言語能力の未発達な幼年者に対して、どのようにすれば、適切な謝罪ができるのでしょうか。


私はキャパシティが小さいです。
“自分の時間”をある程度しっかりと持てないと、すぐにストレスがたまります。
「子どもが泣いてても慣れるよ、あたふたしないでいられるようになるよ」と、ずっと言われていましたが、
ずっとあたふたし、焦り、苛立ちを覚え、私の方が泣きたくなるような想いにかられるばかりでした。
何を隠そう、子どもが3歳になった今でも、私は子どもの泣き声に対する耐性が非常に低いです。
(自分の子どもでなければむしろ全然、つらくないので、不思議ですね)
自分に余裕がないと、思う通りに動かない3歳に対し、すぐに強く言いたくなります。

泣き出したり、怒鳴ったり、というようなことは、
しかし、せずにすんでいます。
なぜなら、私は運がいいからです。
私は昔から運がよく、
ともかく運の良さでここまで生きてきたような人間でして
夫にも、子どもにも、大変に恵まれているのです。


夫は私が“自分の時間”を確保できるように立ち回ってくれ、
子どもは私にとって運の良いことに、泣くよりも笑うことの方が俄然多く(夜泣きも数えるほどしかしませんでした)、
またこれも運良く、私は比較的、時間に余裕のある働き方をすることができています。

つまり、子どもが泣くような事態が少なく、
時間に追われて「余裕がない」と感じてしまうような瞬間が少ないのです。

自分の余裕をキープすることこそが最大の優先事項だ、と自分でもわかっているので
諦め力と手抜き力に磨きをかけ、日々、できる限り“テキトウ”な生活を送るようにしている、という
私の努力の賜物でもありますが。

ともかく、そんな感じなので
基本的にはどうにか、毎日楽しくやれているのですが
時にはそのペースが崩れてしまうことがあります。

子どもは非常におっとりした性格の子ではありますが
年相応に活発になり、「いたずらしてやる〜♪」と、可愛らしく脅迫してくることも増えてきた日々です。
危険の度合いを理解できていない事柄も非常に多いです。

そのため、時には
大きな声で注意をしたり、怖い顔で怒ったりします。

けれどこれ、正直なところ、“子どもの身に危険が迫っている”というような時だけではありません。

もう保育園に行く時間なのに、そして今日はいつもより早く出なければいけない日なのに、いつまでたっても準備をしてくれない、
とか
病院の時間が迫っているのに園から帰りたがらない、
とか
夕食の準備をしていて手が離せないのに「これ見て、これ見て! 見てーーー!」と騒がしくしている、
とか
もう30分もお風呂に入りたくないとぐずっている、
とか
騒いでお風呂入ったあとなのに水分補給をしてくれない、
とか。

そういう、
よくよく考えれば緊急でもないし、さほど重要でもないのだけれど、「別にいいや」と簡単には言えない程度には、円滑にすすんでくれないと困ってしまうようなタイミングや内容になったとき。

大きな声は出しません。
けれど、声が低くなります。
喧嘩ごしに「は?」とかいう時と、同じ程度の低さ。
たぶん、顔も怖いです。
そういう声・顔で
「ねぇ、もうさっきから、時間だって言ってるよね?」
みたいに、すごんでしまうのです。


子どもは、私の変化を察知します。
真面目な顔になって、(ノロノロだったりキビキビだったりはまちまちですが)動き始めます。
そして私が、「よし、もう大丈夫」という、いつもの顔と声に戻るかどうか
様子を伺い、確かめています。

こうして事態は、私が「こうなってほしい」と思い描いていた方向に進みます。

こういうことをしてしまった日に、私は時々、消えたくなるのです。

消えたい、というのは少し大げさかもしれません。
ただ
もしこの先、私か夫かのどちらかが死ぬようなことがあって
シングルファザーとかシングルマザーとかでこの子を育てるような運命が待っていたりするのなら
どうか、どうか、生き残るのが夫でありますように。
と、強く思います。

夫がいなくなってしまったら、この子の育ちには大変な困難がありそうですが
私がいなくなる分には、きっとどうにかやっていける。
きっと夫は、適切に、必要なことを必要なだけ行い、与え、育てていける。
夫なら、自分の手に余るようなことがあれば、実家を頼れる。
夫の実家のことは、私も信頼し、(特にお義母さんのことを)とても尊敬してもいるので、その点でも安心だ。
そう、思えるからこそ
自分がいたらないせいで、不必要な想いを子どもにさせてしまったことについて、
申し訳なさでいっぱいになります。

「私は消えた方がいい」

そんな風に考えたり、感じたりすることが常だった時代が私にはあり、
しかし、そういう風に認識する子どもだったこと自体が不当だったのだ、という知識も今はあり、
だから、
今の私がこんな風に考えるのは、当時からの不当な学習のせいなのか、
それともまっとうなことなのか、いまひとつ判別がつきません。

どちらでもいいといえば、どちらでもいい話ではあります。
重要なのは、子どもにとっての私がどういう存在でいられるか、であって
つまりは、子どもが私のことをどう判断するかであって、
私自身の認識だとか、自意識だとかは、とりあえず置いておいていいのです。

自己犠牲とか、そういう話ではなく
私は子どもにとって、不適切ではない保護者でいたいのです。

子どもを脅かさず、利用せず、支配せず、慈しみ、守り、育てたいのです。
いつか、そう遠くないうちに
私や夫のもとから、自由に離れていけるように。

そのためには、子どもが何かをしようと考え、判断するようなときに
「**しないと、お母さんがこわいから」
なんて判断軸は、持たせたくないのです。
持たせてはいけないんです。
それは支配だから。


こういう事態をひきおこしてしまったときには、
なるべくすぐに
「今の言い方は、お母さんが悪かったね。ごめんね」
などと言って、謝るようにしています。
「こわかったかな? ごめんね」
とか
「お母さん、困ってたから嫌な言い方しちゃった。ごめんね。怒ってないよ」
とか。
そして、できる限りはその場で仲直りをします。
もちろん、子どもが「仲直りをしたくない」「まだいいよって言いたくない」ようなこともありますので
そのようなときには、「じゃあ、いいよって思ったらまた一緒に楽しくしようね」と声をかけて、実質、それでおわりです。


子どものことが大好きです。
尊重したいと思っています。
でも、そうしたいと思っているのに、できないときがどうしてもある。
そういう“できなかったとき”に、私はちゃんと、適切に対処できているのかどうか、という不安です。

これはきっと、
適切だったか否かを、はかる尺度を持てていないことからくる不安でもあるのだと思います。


リカバリーの方法については、いろいろと言われていることもありますね。
たとえば
お母さんはあなたのことを嫌いになったわけじゃないよ、とちゃんと伝える。とか。
でも、
酷いことをした流れで「お母さん、あなたのこと大好きだよ」伝えるのは、
なんだか卑怯だし、
価値観や尊厳の拠り所を揺さぶってしまうのでは、というのが怖くて
上手にできません。

大好きだから怖いことをされているんだ、
大好きだから、怖いことでも仕方がないんだ、
大好きだったら、怖いこともしていいんだ、
という呪い
をかけることになってしまうのではないか、という恐れが強いです。

大好きで、愛していれば許される、なんて
そんなことはないわけで。
子どもの立場でいえば
愛されていることと、受けた行為の妥当性とは、必ずしも結びつかないのですよね。

でも、子どもの感じた“怖さ”の中には
親である私に嫌われる、見捨てられる、というような恐怖があるとも思うので
「大好きだよ」と伝えることで
その“怖さ”の根本を否定しておくのはやはり大事なのでは、とか、悩みもします。

(毎晩、ぎゅっとして「大好きだよ〜」と伝える儀式のようなものをしているので、これをいつもより気合い入れて言ったりはします)


“怖さ”を与えてしまうようなことが、そもそもは不適切な扱いなわけなので
そんなことしないようにするべき、というのが大前提です。
「どういうときにそうしてしまうのか、を自分で把握し、そういう状況が起こらないようにする」とか。
わかっていますし、そういう努力もすでにしてはいるのですが
私は人間なので、そしてともかく、キャパシティが小さいので
「絶対にもうやらない」とは、言えないのです。
言いたいし、言うべきなのだろうけれど。
それに、こういうケースに限らず
子どもへの謝罪が必要になる状況は、これから先も、きっといろいろあるでしょう。


適切な謝罪とは、どういうものなのか。
どう謝れば、呪いをかけずにすむのか。

私はまだ、そのこたえを探せていません。



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