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【エッセイ】弁当と定食のはなし

いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。 それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ

「美味しんぼ」より引用

 職場の近くにある定食屋のトンカツ定食は980 円だった。これって高いのだろうか、安いのだろうか。長く食を疎かにしてきた高倉には、定食の価格帯が分からない。

 高倉はこの春から新しい現場に転属となった。仕事内容はサーバーやネットワークの構築、保守だ。機材が壊れたという報告があれば交換しに行くし、システムの構築が終わったら機器を納品しに行く。外に出ずっぱりというわけではないが、適度な外出が発生する仕事だ。
 こういう仕事は初めてで、働くリズムを未だに掴みあぐねている。具体的には、定時に対してどの程度の余裕をもって出勤するべきかとか、外出にどの程度時間を要する想定で、外出前に内勤作業をどの程度片づけておけば安心かとか、一番悩ましい課題は、昼食はどうするべきか、だ。
 同じ部署のメンバーは高倉を入れて十数人。配属されてから一週間観察した結果、全員昼食は持参しておらず、外に食べに出るか、食堂で定食を食べていた。たまたま弁当を持参しない派閥の人間が揃った部署だ、とは考えにくい。業務内容の特性上、弁当を持参せず外食で済ませる方が合理的だから全員そうしている、と考えるのが自然だろう。

 今日、午前中に作業に出掛けた人から「作業終わりました!お昼食べてから戻りますー」というチャットが飛んでいるのを見かけて、もしやこれかもしれないと思った。移動が伴う仕事の場合、昼時にオフィスに居られるとは限らない。どこにいても適当にご飯を済ませることができるように、そして移動の際の荷物を減らす為に、誰も昼食を持参していないのかもしれない。合理的だ。
 或いは信頼関係を構築するためかもしれない。同じ釜の飯を食う、という慣用句もある。一緒にご飯を食べることで知れる気心もあるだろう。高倉は休憩時間を一人で過ごしたいし、誰かとご飯を食べるなんて御免被りたいが、この現場はそうじゃない人の方が多いのかもしれない。腹を満たしながら人の信頼を獲得できるなんて、一石二鳥とも言える。

 高倉は今まで弁当持参人間として生きてきた。二段の弁当箱のうち一段に白米を詰め、もう一段に冷凍食品を適当にぶちこんで、フリカケと箸を添えただけのクソ手抜き弁当だが、一食当たり200 円弱という強コスパで、守銭奴高倉の精神衛生には大変良い。
 食堂の昼食は、メニューにもよるが、平均して一食500 円程度だった。オフィスを出てすぐのところにある定食屋のメニューは平均1,000 円といったところだ。因みにコンビニの弁当は500 円から700 円程度。
 職場の特性上、弁当持参を続けるのは悪手だと分かっている。ただただ財布がめっちゃ痛い。たまの贅沢として外食を挟むのは悪くないが、毎日となると話は別だ。一日あたりの出費が300 円以上増えると、財政赤字になるわけではないが、それでも家計は今まで通りに回せない。今まで通りを保とうとするならば節約できる部分を捻りださなければならなくて、貯金こそ快楽な高倉としては結構気が滅入る。
 とはいえ、食を蔑ろにできる年齢でもなくなってきた。健康に生きるなら健康な食生活が必須で、冷凍食品を適当にぶち込んだだけの昼食はお世辞にも健康的な食事ではない。健康は金で買えるものではない。腹を満たす為だけの食事はいい加減卒業して、健康に気を遣いつつ美味しいものを美味しく食べることをはじめる時が来たのかもしれない。

 漫画「美味しんぼ」に登場するトンカツ屋の主人は、トンカツをいつでも食えるようになるんだよ、と学生に語り掛けている。トンカツをいつでも食べられる程度が、人間の丁度いい塩梅なのだそうだ。
 トンカツなんて長く食べていない。外食と無縁の一人暮らしをしていると、そもそも食事の選択肢にトンカツが挙がらない。トンカツってどんな味だったっけ。最後にトンカツを食べたのっていつだ?

 退勤後、定食屋の前を通りかかった。ショーウインドウの中で、トンカツ定食の食品サンプルが夕日を浴びて輝いている。からりと揚がった衣、歯切れのいい豚肉、添えられたしゃきしゃきのレタス。「¥980」と走り書きされた札は褪せている。褪せるほど長い間、人々の胃袋を掴んできたトンカツ。
 やっぱトンカツをな、いつでも食べてぇよな。そう呟いて、暖簾をくぐる。

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