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東畑開人『居るのはつらいよ』を読んで、企業と「ケア」的なアドバイザリーと居場所などについて考える

『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく) 』は臨床心理学者の東畑開人氏によって2019年に書かれた、沖縄のデイケアにおける精神看護の日々を綴った作品である。エッセイのような軽いタッチで描かれてはいるが、「ケア」と「セラピー」とは何かに迫るれっきとした「ガクジュツショ」でもある。

もともと評価の高い本であり、普通に読んで面白いことももちろんだが、「ケアとセラピー」的な概念については、誰かを支援する他の仕事においても考えておく価値があることのように思ったのと、「居場所」について考える上で大事なことが描かれているように思ったので紹介したいと思う。なお、精神看護の現場を描く以上、ツラいことは起こる。とは言っても、極力落ち込むような雰囲気にはならないように書かれており、そういうのが苦手な人でも安心して読める作品となっている。


■ 概要

・ハカセと精神科デイケア

大学院で臨床心理学を修め博士号を取得したハカセは真の臨床心理学徒としてガクモンを実践すべく、カウンセラーとしての働き口を探していた。時は2010年初頭。リーマンショックによる混乱から、世界経済は持ち直しつつある状況にあったものの、日本ではデフレが続き、今で言う「失われた20年」のちょうど中間地点に当たる時代だ。

そんな必ずしも良くない経済環境で、カウンセラーの仕事を探すとなると大変だったであろうことは想像に難くない。臨床心理士の求人であっても、カウンセリングがメインである仕事は少なく、大体は非常勤で単価も安かった。そんな厳しい環境の中、職探しに苦戦していたハカセは、ある日求人広告で条件に恵まれた仕事を見つけ、飛びつくように沖縄に向かう。しかし、学びの成果を精神医療の現場でいかんなく発揮せんと鼻息荒くハカセが向かった先は、想像とは全く異なる「居場所型デイケア」の現場だった。ハカセは大半の時間そこにただ「いる」ことを余儀なくされ、戸惑いながらも、「ケアとセラピー」を見つめなおす日々を過ごす。

精神科デイケアは、統合失調症等の精神疾患を患った人々がリハビリテーションのために日々を過ごす施設だ。そうしたデイケアには俗に「通過型」と「居場所型」があるなどと言われる。一方の「通過型」はその名のとおり、治療プログラムなどを通じて利用者が回復し、社会に戻るために通過していく場所だ。ということは、もう一方の「居場所型」は、通過を前提としていないということだ。利用者はデイケアに留まり続ける。それでいいのだろうか。もちろん「居場所型」もデイケアには違いなく、利用者(本書ではメンバーと呼ぶ)の社会復帰を目的としているが、実際問題として、精神科デイケアに集まる人々が社会復帰するのは必ずしも容易な事ではない。様々な要因で社会復帰が難しいメンバーは、結果的にデイケアに「いる」事を続けざるを得なくなる。病院に戻るよりはいい。そうした人たちは傷つきやすく、社会に居場所を見つけることはもちろん、デイケアに「いる」ことだってツラいことだったりするのだ。だから「いる」ことから始めるのである。

・ケアとセラピー

そういう人たちの「いる」を可能にする「ケア」とは、一言で言うと「傷つけない」ことである。そこでは、毎日同じような風景が繰り返され、事件があっても人が入れ替わっても全体として変わらない日常が続く。目標はない。しいて言えば「いる」ことだ。そういう環境で始めてメンバーは安心して他人に頼ったりすることができるようになり、とりあえずそこに「いる」ことができるようになる。ハカセが働き始めたデイケアは「いる」が出来るようになるために「いる」ための施設だった。

一方で、ハカセがやりたかったのは「セラピー」だ。「セラピー」とは問題や痛みに向き合うことであり、それを通じて自立や成長を促すものである。「セラピー」は物語的なものだ。いったん日常から離れ、傷つきながらも困難に立ち向かいそれを乗り越え、新たな日常に向かって歩む。それは、傷つく事を避け、同じ日常を繰り返す「ケア」とは全く異なる。実際には、この2つは人が誰かを支援しようとする現場には両方が混ざりあって同居しており、完全にどちらかに分けてしまう事もできないが、コンセプトの違いによってこの2つを区別することは理解を深めるうえで役に立つ。

・線的なものと円環的なもの

本書では、何らかの変化を目指す「セラピー」のようなものを「線的」とし、同じような日常を繰り返す「ケア」のようなものを「円環的」とする視点が提示される。もちろん、「線的」なものも行きつ戻りつをするし、「円環的」なものも、外界との接点・・・誰かがデイケアにやって来て誰かがデイケアから出ていく・・・そんな「線」の要素も持っている。だからこの「線的」なものと「円環的」なものの境界も曖昧だ。ぼくらの毎日だって、「線的」なものの一部でもあると同時に「円環的」なものの一部でもある。自分が所属している会社のような組織には目標があるし、自分なりの目指すものみたいなものもある。成長もしたい。その一方で、毎日職場で事件が発生し、今日と明日が全く変わってしまうようではとても安心して働いてなどいられない。職場が変わらない風景だと感じられることもやはり必要だ。「線的」でることと「円環的」であること、この両方はいずれも大事だ。著者の言葉を借りれば、線は人生であり、円は生活である。

ハカセは心のうちに危機を抱えたメンバーに「円環的」である「ケア」を提供することの価値を体感しつつも、だが自問自答する。

「それでいいのか?」

ぼくらの世界ではただ「いる」ことの価値はあまり認められていないのだ。

■ アドバイザリーの仕事における「ケアとセラピー」

我々は日常的に「何かを目指す」という「線的」価値観に触れていて、すっかりそれが当たり前のように思っている。同時に生活といった「円環」の中にもいるが、そこにはあまり光があたらないし、なんなら最近では変化に乏しいことはあまり良い評価を受けていないようにも思う。誰しもが多かれ少なかれ「変わらなきゃ」に追われている。

・線的な成長ストーリーとただ「いる」企業

企業の存在意義みたいなものを考えてみても、解決したい社会課題があり、そのためのロードマップがあり、それを実現するための組織の在り方が定義される、ということが当然のようになっている。少なくとも自分は役職員やステークホルダーの「いる」を続けるために、なんでもいいから商売をやります、ということをあからさまに打ち出している企業を見かけたことはあまりない。中でもスタートアップ企業のようなものは顕著に「線的」なものだ。何か目指すものがあり、その未来に辿り着くための「ストーリー」があり、その「ストーリー」のために、人や資金が集まってくる。

一方で、現実の経済社会には、もはや「いる」ことだけを目的としていると言わざるを得ないような企業もたくさんある。90年代後半からゼロ年代前半の第三次ベンチャーブームで市場に登場したベンチャー企業の行く末をウォッチしてきた人であれば、企業の掲げる「ストーリー」の多くが中途で破綻し、半ば市場に留まるだけの存在となってしまったような企業が今も市場の片隅に「いる」ことは良く知っているだろう。すべての起業が成功するわけじゃない。歴史を見る限り、経済の新陳代謝を促進する過程で、そうした「いるだけ」企業が発生することは避けられない。上場まで辿り着く企業ですら一握りなのに、その後も成長を続ける企業はさらに少なくなる。成長シナリオが破綻したとしても、それでも上場企業である以上はステークホルダーのためにおいそれと日常を投げ出すわけにはいかない。

・我々の背負う業のようなもの

自分は仕事上そうした夢破れた企業の存続や後始末に関わってきた。「果たしてこれに意味はあるのだろうか。」仕事とはいえ、自問自答しなかったことはない。しばらく前から、そうしたベンチャー企業の市場進出を多数手掛けてきた大ベテランの会計士と少しだけ交流があるのだが、そうした大先生であっても、「自分が市場に送り出してきた、いやそういうとおこがましいかも知れないが、少なくとも関わってきた企業が多数あるが、当然そのすべてが花開いているわけじゃない。果たして自分がしてきたことは社会にとって良かったのだろうか、という思いをずっと抱えている」ということを言っていた。

株式会社のような組織は大きな仕事をなすためには現代経済社会では不可欠な装置となっている。それは大量の資金を食い、多くの人を巻き込み、社会に少なからず影響を与える。意義のある仕事だと思ったものが、後々見ると結果的には社会に何のプラスももたらさなかった、ということも避けられない。企業の成長支援みたいな商売を何年もやっていれば、誰しも多少はそうした業のようなものを感じることもあるだろう。

・ただ「いる」企業に価値はないのか

一歩そうした「いる」だけの企業の中に足を踏み入れてみると、そこには経済社会全体にはびこる「価値あるストーリー」みたいなものとはまた違った風景が広がっている。働き手もまた「線的」な人ばかりじゃない。「円環的」に、生活を成り立たせるため、他に居場所がなくて、その他様々な理由で、半ばそこに「いる」ために「いる」人たちがたくさん「いる」。そういう人たちも、ずっとそこに「いる」事だけを考えているわけじゃない。だけども、現実に円環的な時空間を脱出するのは案外難しいことだ。リスクもある。

自分ももちろん、そうした停滞した企業を前に進ませる為に仕事に関わることはある。いくつかの取り組みがうまくいき、少し前に進めそうだ、そう思った翌年には、またトラブルが起こり、結局元の場所に戻ってくる。そんなこともしょっちゅうだ。いったいこれに何の意味があるのか、何度もそう思った。

しかし、そうした営みは、多少なりとも構成員の家計や生きがいみたいなものを支えているし、株価だってゼロにはなっていない以上、投資家も直ちに会社がつぶれることを望んでいない。その一方で、この会社は社会全体にとってなんのプラスももたらさないかもしれないし、将来の投資家により大きな損をさせることにもなるかもしれない、という声を頭から消し去ることはできない。

・ぼくらの「ケア」的な仕事

コンサルティングやアドバイザリーという仕事は、一般的にはクライアントの課題を解決するものだ。よって、「線的」にクライアントが次のステージに進むことを良しと考える。これは、「ケアとセラピー」の対比で言えば、「セラピー」にあたるものだろう。課題に向かい合い、介入し、自立を促すことを支援し、企業が課題を乗り越えて成長する。理想的だ。

一方で、ただ「いる」状態となってしまった企業に対する支援はもはや「ケア」だ。壊れてしまったビジネスモデルはいったん置いといて、存続を脅かす問題を処理し、日常を支える。結果的に、多くの企業がそこから抜け出せないのは残念なことだけど、生存を脅かされている状態で、次のステップに進めというのも無理な話だ。企業活動のルーティーンの部分を支える仕事の中には、「ケア」的な成分が多分に含まれているように思う。

そして、自分が手掛けるような継続的に顧客に関与し続けるタイプの仕事は、「ケアとセラピー」の両方を提供する仕事であると言えそうだ。多くの企業は実際に「セラピー」だけでなく「ケア」的なものも必要としている。それは現場に飛び込んで、中の人たちと日々を過ごすようになれば、自然と体感できることだ。その結果、会社のステータスによっては、むしろ仕事の比重として、会社に「いる」事のウエイトが大きくなるものもある。やることもあると言えばあるが、どれもそう大したことではない。どちらかというと、組織のメンバーとして顔を出すことのほうが大事だ。成果物を見せろと言われると困ってしまうが、自分の専門分野以外の他の専門家を呼ぶまでもない様々なことについて一緒に考え、中の人たちの日常を支えているような気がする。

・使命と現実のはざまで

自分だって、まがりなりにも「国民経済の健全な発展」に寄与することを使命とする者のはしくれである。そりゃおんなじことなら、将来大きく花開くような企業の成長を支援するような仕事をしたい。しかし、目の前にいる自分の助けを必要としている人たちの事をぽいと捨てても行けない。そうした仕事に関わると、トラブルにはしょっちゅう巻き込まれるし、結果として自分のブランドみたいなものを傷つけることもある。社会にとって良いかどうかはわからないし、自分自身にとっても良くないのかも知れない。そうした葛藤を心のどこかに抱えながら、とはいえ割り切ることもできず、今までなんとかかんとかやってきた。

確かに自分の仕事は国民経済の発展というスケールで見ると社会には何ら貢献していないかも知れない。しかし、何もかも、そういうわかりやすい「役に立つか立たないか」、みたいな事で判断していいものなのだろうか。その先にはいったいどういう未来が待っているのだろう。

■ ただ「いる」を脅かすもの

・「いる」と経済

たかだか企業の存亡みたいなことと、人の尊厳みたいなものを、同列に語るべきではないのかも知れない。とはいえ、多少イケてない企業と言えども、その中には現実の人がいて、誰かにとっては「生きる」事を支える営みであることも間違いない。自分には、この精神看護の現場の話が他人事のようには思われなかった。「いる」を守る仕事の価値をうまく説明することは出来ない。言葉にすればたちまちに論破されてしまうようにも思う。それでも、自分にはそうした「ケア」的な仕事に意味がないとは思えない。

誰もが知るとおり、日本での社会保障負担の増加は現在留まるところを知らず、今後高齢化がさらに進むことを考えると、先行きはさらに不穏だ。収入が限られている以上、予算は効率的に用いられなければならない。その観点からすると、「ケア」つまりただ「いる」ことの旗色は悪い。経済は費用対効果を求める。「ケア」からは目に見える経済価値はあまり生まれない。本来通過すべきデイケアが事実上「終の棲家」となってしまっている。そこに社会保障費の一部が投じられている。

「ケア」の持つ価値を言語化しようという試みもあるという。しかし、それが言語化され一定の尺度が与えられてしまうと、今度はそこに効率性、費用対効果という観点が導入されることは想像に難くない。経済合理性という思想はあまりに強力であり、我々はともすればあらゆる営みをその文脈の中に回収しようとする。我々はコスパが大好きだ。そうして、コスパが悪いとされたものや活動は世の中から姿を消していき、徐々にそういったものを必要とする少数の人たちの「居場所」を蝕み、やがて奪っていくだろう。

どうしたってリソースは有限なのである。誰もが人間らしく生きられる時代を目指してやってきたのは、それは豊かさゆえの理想であってREALではなかった。まだ見ぬ未来ではそういう一言で終わってしまうような事なのかもしれない。社会が最大限努力しても維持できる「居場所」が少なくなれば、居られる人も多様ではなくなっていく。それをぼくらはどうすることもできない。

・「居場所」の価値とは

また、これは経済価値だけでは図れない「居場所」の価値をめぐるお話でもある。「居場所」は今HOTなテーマだ。

リモートワークの影響なのか、働く人の意識の変化なのか、人間性を失わせる仕事のやり方や業務量に問題があるのか、単に可視化されただけなのかは知らないが、昨今、職場に「居場所」感を感じられない人がたくさんいるように思われる。「居場所」感の創出に課題を感じている企業も多々あることだろう。職場以外に「居場所」となるコミュニティを探そうという動きもある。組織や個人がどのように「居場所」と向き合っていくのか、そこに関心を持っているのは自分だけではないはずだ。

働き方やオフィスがどのように変わろうとも、器用に「居場所」を見つけられる人はいい。だが世の中には不器用な人も必ずいる。やろうと思えばできるんだから、やればいい。そういう言葉はあっさりと人を傷つけてしまう凶器だ。そうしたうまく「居場所」を見つけられない人の中でも、最も不器用な人たちを集めた場所のひとつとして考えられるのがデイケアだ。その様子をうかがい知ることから、「居場所」というものを深く考えるうえでのヒントが得られそうに思う。

「居場所」の問題に関して、「居るのはつらいよ」から学ぶことができることは色々ある。ひとつ挙げるとすれば、何かを「する」場所は必ずしも「いる」ための場所ではない、というところだ。「いる」ためには、責められず、傷つけられず、気を緩ますことのできる場所が必要だ。高い目標を共有するコミュニティみたいな場所は、本来「いる」ことに向いた場所ではないことが、「いる」ことに特化したデイケアとの対比から見えてくる。

経済の原理では「いる」こと自体に価値を見出すことは難しい。「いる」からスタートして成長に向かおう、ついそんな風に考えてしまう。それはともすれば「いる」を損ないかねないことだ。そこに「いる」を可能にすることの難しさがある。「働き方と生産性」のような経済の言葉に目を奪われている限り、「居場所」をデザインすることは難しいのかも知れない。

・「いる」を見直そう

繰り返しになるが、「いる」の価値は見過ごされがちだ。しかし、我々にとって「線的」なことと「円環的」な事は同じぐらい重要なことのように自分には感じられる。日ごろあまり評価されない多様な人間の営みに、少し目を向けてみてもいいのではないか。そんな風に思う。

関係ないが、自分も10年代初頭は、独立して仕事をしながら試行錯誤を繰り返していたので、そんな時代背景にもなんとなく共感した。


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