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アレクサンドロスによる統一      ヘレニズム時代まで


巨大帝国の誕生


カイロネイアの戦いを制したマケドニアのフィリッポス2世の子

アレクサンドロスは、世界史を知らない人でも聞いたことのあるほどの

有名な王です。彼はヨーロッパからインドにまたがる巨大帝国を

築きました。

アレクサンドロスは幼少期には哲学者アリストテレスの教えを受けており、

熱心にギリシア文化を吸収しました。

前336年に父であるフィリッポス2世が暗殺されたことで20歳にして

コリントス同盟の盟主としてマケドニア王位に就きました。

また、スパルタを除くギリシア諸国に対しても統制する立場にあり、

ドナウ川方面の平定や離反したテーベを討つなど先にギリシア諸国との

同盟関係を固めてから、ギリシアにとってかねてから脅威であった

アケメネス朝ペルシアを倒すため、東方遠征を行いました。


東方遠征


東方遠征では、イッソスの戦いアルベラの戦いでペルシア軍を悉く破り、

前330年にペルシア帝国の都ペルセポリスに入り、王宮を破壊したことで

ペルシア帝国を滅ぼしました。

東方遠征軍は出発から約4年の間にギリシアからオリエント世界を含む

世界的な帝国であるアレクサンドロスの帝国を成立させました。

破竹の勢いで各地を征服したアレクサンドロスですが、前323年に

バビロンで熱病に罹り32歳で死去しました。





アレクサンドロスの戦術と武器


大王の軍は、陸軍主体で、甲と脛当に丸楯を防具とし、サリッサという

5〜6メートルからなる長槍の武器を用い、重装歩兵で敵の主力を足止めし、

自身は騎馬隊を率いて大きく迂回し敵の心臓を突くというギリシアの

重装歩兵密集部隊戦術をさらに改良したものを採用していました。





後継者戦争(ディアドコイ戦争)


問題はその死後、彼の「最も強き者が王位を継げ!」といったクソ曖昧かつ

絶対後継者争い起きそうな遺言によって大王の遺領を巡って約半世紀に

及ぶ争いが起きます。

大王の死去後、実権を握ったアンティパトロスの息子のカサンドロスが

大王と正妻ロクサネの間に産まれた息子アレクサンドロス4世を擁立

しましたが、その後密かに殺害したことでアレクサンドロスの血統は

途絶えました。

カサンドロスはその後、マケドニア王を宣言しましたが、アレクサンドロス

の武将であるアンティゴノス、エジプトのプトレマイオス、シリアの

セレウコスなども王を称し、戦争は激化していきました。





ヘレニズム時代


ディアドコイ戦争の勃発によってアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス

朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三国が成立し、いずれもギリシア人

の王朝が支配した国家ということで、ヘレニズム三国といいます。

ヘレニズム時代は、プトレマイオス朝エジプトが前30年に滅亡するまでの

約300年間のことを指し、ギリシアの民主政時代とローマ帝国が成立する間

の東地中海から西アジアにかけての地域の歴史を総称しています。


ヘレニズム文明



ヘレニズムとは「ギリシア風の文化」を意味する言葉で、古代ギリシア人が

自らを英雄ヘレンの子孫という意味を持つヘレネスと称し、その土地を

ヘラスと言っていました。

ヘレニズム世界においてはギリシア語が公用語として使用され、コイネー

言われていました。

またこの時期に、より広い世界での個人の生き方を探求する

コスモポリタニズム(世界市民主義)の思想が広がり、哲学ではストア派

エピクロス派の2つの潮流が生まれました。

ヘレニズム文化はプトレマイオス朝エジプトが滅びるまでのヘレニズム時代

以降も文化として西アジアからインドにかけて存続しました。





ヘレニズム諸国の滅亡



ヘレニズム三国はいずれも前2〜1世紀の間にローマの手によって

滅亡します。

アンティゴノス朝マケドニアはローマとのマケドニア戦争における

ピュドナの戦いにて敗北を喫し滅びます。

続いてセレウコス朝シリアは、前3世紀にパルティア、バクトリア、

ペルガモンなどが自立したことで衰退し、前63年にローマのポンペイウス

よって滅ぼされます。

最後にプトレマイオス朝エジプトですが、前31年にアクティウムの海戦

ローマのアントニウスと手を組んだ最後の女王クレオパトラ7世が、

オクタウィアヌスに敗れ、翌年自殺したことで滅亡しました。


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