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味覚の不思議

 某有名店で、ある人がある料理を食べて美味しいと言う。別のある人が同じ店で同じ料理を食べて、やはり美味しいと言う。この二人が言う美味しいは、同じ美味しさなのだろうか。それとも全く違うのだろうか。違うとして、その違いを客観的に示すことは出来るのだろうか。

 評論家なら、その料理に使われている素材や調理法に焦点を当てて解説するかも知れない。舌触りや食感、喉越しを独特の言い回しで表現するかも知れない。シェフの経歴などにも触れるかも知れない。しかし、どんなに言葉を尽くしたとしても、その評論家が味わった味を読者が感じることは出来ない。それなのにその評論家の中では、別の時に再びその料理を思い出すだけであの味がありありと思い出されるに違いない。

 私たちが感じる味は何なのだろうか。

 その味は自分の中だけで再現性があって、でも人には決して伝えることが出来ない。美味しいから食べてみてと人に勧めて食べてもらった結果、その相手が美味しいと顔をほころばせたところで、あなたが感じた味とは別の感覚に違いない(人によっては美味しくない様な料理ではなく万人が美味しいと思う料理でも)。

 味は、舌にある様々な味覚センサーと鼻から嗅ぐ香りの信号が脳に届いて起こる。そして食感と言われるような咀嚼する時の感触や、盛付けなどの見た目の情報も合わさって脳の中でブレンドされる。
 信号や情報というと味気ないので、ここでは刺激と呼ぶことにしよう。刺激は時系列変化を伴う。なので味は瞬間的なものではなくて一定幅の時間の中で沸き起こる感覚だ。様々な刺激が時間とともに変化していく中で、まるでホログラムのように刺激の中から味が浮かび上がってくる。味の記憶は個々の刺激としてではなくホログラムとしてエンコードされて記録される。そして後日思い出すときには、ホログラムがデコードされて個々の刺激が蘇る (この話は単なる私の思いつき仮説であって科学的な知見ではないのでご注意を)。

 味のホログラムは言葉に置き換えることが出来ない。しかもその人固有のものなので人と共有することが原理的に出来ない。その人の脳の中にだけ存在しうる記録なのだ。忠実にデコード出来るのはエンコードした本人に限られるというわけだ。

 ここまで、味について見てきたが、実は味だけではなく私たちの感じる全てのことが同じからくりを持っている。色、音、匂い、暑さや寒さ、心地よさ、痛みや苦しみなどあらゆることだ。全てがホログラムとして記録されている。
 私が見ている青という色を、どんな風に見えているかあなたに伝えることは出来ない。私に見える青と赤の違いを説明することが出来ない。
 同じように、私に聞こえているPCのキーボードを叩く音がどんな音かをあなたに伝えることは出来ない。あなたを私のうちに連れてきて私の横でキーボード音を聞いてもらったところで、あなたに聞こえる音と私が聞く音は同じでは無い。お分かりだろうか。

 こうして私たちは、人とは違う言わば独自の世界に住んでいる。同じなのは何かを感じているということだけだ。
 ここで述べているのは、同じものを観ても人によって感じ方が違うよねと映画の感想を喋っているようなこととは根本的に違う。もっと原始的な感覚に近い領域のことだ。人がどうやって事物を認識しているかといったことだ。
 
 そして今日もコーヒーを啜りながら、口の中に広がるこの苦みの正体は何だろうかと思い巡らせている。苦味成分が何かということではなく、苦味成分によって刺激された脳が感じているこの苦みの感覚の正体のことを。
 
おわり

 

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