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コンビニからくずれる

 コンビニエンスストアが生活市場を支えるようになり、その動きが加速しています。便利になったと実感されている方も多いでしょう。

 過疎化・少子化とあいまって経済が低調になり、与える側も受ける側も消費の合理化に進みました。この流れに逆らうことなく(森林から発した水が平地へ流れるように)、むしろ加速させていく、それを是としているのが今の社会の大勢です。

 あたりまえのように私たちの生活も再構築されていきます。ここにはいくつかの問題があると思いますが、「便利さ」という即時的な効果で塗りつぶされて思考が単純化され、疑問を持つことなく変化に馴れ、恩恵にあずかり、その裏でどうしようもない社会現象を電車の車窓から景色を眺めるように通り過ぎた時間に置き去りにしていくのです。

 合理化のお陰で製品やサービスが均質化し、大きなハズレもなければ、求める水準が異なると全く役に立たないものが並び、それで我慢するしかない状況が広がってきています。表面的には多様性の喪失ですが、コピー文化が地域固有の特色を塗りつぶして展開されて行きます。素晴らしい文化や観光の地に一軒コンビニができる事で都会と同じ景色に染まって行くのは残念な事でもあります。一つ価値が失われ、もはや特別な場所ではなくなってしまうからです。

 ところで最近の報道で食べ物をおもちゃにするアルバイトの動画のトラブルが目に付きます。SNSの普及と共に増えた軽犯罪だと思いますが、社会人の方たちから見ると理解し難い行為のようで、事件の度に「何を考えているのだろう」「あり得ない」といった常識を疑う声を耳にするようになりました。若い人からも「職場に迷惑がかかることを考えたら普通、できないですよね?」などと問われますが、このように答えました。
 「学生はまだ大人とは言えないし、拘束時間中にヒマをもてあますと遊びや動画広告収入などに気持ちが走るのでしょう。でも、仮に問題のあるアルバイトだと分かっていても雇わざるを得ない事情があるんじゃないだろうか。募集は常にかけていると思うけど、そんなきちんとしたバイトを確実に雇うのは難しいんじゃないだろうか」

 こういった事件が起こるのは外食チェーンやコンビニですが、話をコンビニに限定すると(たまたま会話した時はコンビニで事件が起こった直後でしたので先程のような会話になりました)、コンビニというのは都会では信号ごとに複数事業が店舗を置くといった展開で、どう見ても店舗過多です。つまり最初から労働力不足という問題が発生することは分かっているわけです。これだけの拠点に労働力を集めるのは相当なのべ人数が必要なことは誰にでも簡単に分かると思います。
 つまりコンビニ事業というのは、労働力不足という問題を抱えた基本的な欠陥が前提の事業なわけです。従業員トラブルが多発するのは当然と言えます。問題を起こしたバイトの責任はありますが、そもそも事業モデルとして見た場合に確定しているリスクであって、事業上の欠陥について経営者の責任がないとは言えないのです。ところが間に契約を挟むことによって、その責任は店舗経営者に転嫁されています。

 実際に今、24時間オープンという開店時間が問題になってしまっていると思います。

 しかし、コンビニの場合、事業モデルを作り運営している企業と、各店舗の運営責任は別になります。店舗は店長の責任下にあり、店長はコンビニチェーンに対する責任を持つ形になります。
 バイトが問題を起こせば、一次的には店舗を経営し採用した店長の責任です。しかし店長は事業モデルに問題があっても、これを修正したり運用に手を加えて調整することができません。

 それではなぜコンビニの店舗が増えてしまうのでしょうか。増えなければ問題は起こりにくくなるからです。

 コンビニについては夜間の経済活動を支える拠点としての有用性、また原発はじめ電力エネルギーの有効利用、夜間の治安活動のための拠点(照明の提供や防犯カメラなどの設置先)、行政・公共サービスの代行、低迷した商業活動の代わりに市民への消費生活を代行するといった行政上の支援を行う拠点利用価値および利用方法として重宝されます。

 実際に行政上の支援があります。設置に関しては様々な補助金の適用がありますが、総務省・自治体等から50~数百万、一千万単位での補助が出る場合もあります。

 また、政令指定都市になった自治体にはコンビニチェーンが店舗展開を始め、なおかつ店舗数を一気に増やす傾向があります。補助金が得られることや公共サービスの受注ができるからです。

 自治体・市民課が行う行政サービスの代行については特に積極的な支援が発生します。住基ネットワークがマイナンバー制度に移行したのはご存じと思いますが、住基ネットサービスを請け負う会社は紆余曲折を経て地方自治情報センターというシステム会社になります。こちらが地方公共団体情報システム機構と名称を変え、マイナンバー制度の下で事業を引き継ぎました。このシステム会社には官僚出身者が役職に招かれ、行政サービスという安定した事業の下でシステム事業を行っており、住基・マイナンバー制度の資金が集まる場所となっています。こちらの事業が各種地方の拠点へサービスを提供するという形で都市と地方の市民生活に行政サービスを提供、そして市場化しているわけですが、拠点として多く利用されるのがコンビニエンスストアなのです。政策的には総務省の担当になります。

 そしてフランチャイズする店長となる側からの都合があります。個人商店や販売を扱う場合、広告宣伝に対する収益が見込めないため、コンビニチェーンの知名度を利用する方が楽だと考えます。仕入れに悩むことも少なくなります(ただしノルマは決して楽ではないようです)。メリット・デメリット双方あると思いますが利用者の確保という難題を抱えて事業を続ける不安の方がより大きくなっているのです。

 事業者は事業上の問題には目を瞑り、責任は店舗の店長へ引き取らせます。店長はさまざまな負担はありますが利用者がコンビニに流れるので新規事業としての成功を考えると、ほぼ選択肢がないと思い込んでいます。この二者の危ういバランスが広がってしまっているという状況です。こう考えるとバイトの素行が悪質だ、として個人に責任を集約して終了、とすることが問題の根本的な解決になるとも思えません。
 (このようにシステマティックな経営には重要な社会問題があるのですが、この点については別記事としたいと思います)


 この循環の中に出入りするもう一人の関係者が消費者です。やっと本題に入りますが、これこそが私たちの問題で、多様性を失った既製品の世界が広がりそれ以外の世界が小さくなっていく流れが進んでいます。

 実はコンビニでの消費はたいへんに割高なものになりがちです。といって製品が値段なり、あるいは高額で性能の良いものであるかというと中にはそういった商品もあるものの、専門店などには及びません。

 食品も多く扱われていますが、既製品ですので自分の体調や健康と相性とよいものかどうかはメーカーを信用する以外にありません。表示を見る範囲では添加物はかなり過剰です。消費者に利便性を提供するためですが、店舗も賞味期限の短い商品を抱え込んで消化しきれない場合の慢性的な在庫体質となっています。供給過剰にして利便性を維持するという贅沢なシステムですが店舗側の損害になっています。(このようになってしまう原因はもう一つあるのですが別記事としたいと思います)

 御菓子業界も大きく影響を受けています。コンビニスイーツはたいへんよく売れるそうですが、一番大きいのは気軽にお茶一回分の商品が購入できるからでしょう。トータルで見て高い値付けでも、一回の支払いが小さい方が不景気でお金を使うストレスが少ないからです。御菓子類の加工は特殊ですのでやはり添加物への依存が強まることと、合成された味(例えば緑茶粉に色素を持つ食品を組み合わせて抹茶味としている物は多い)や流行一色の味(製菓業者がインスタントな材料を大量流通させます)に偏りやすいことが問題で、本物の味とかけ離れたものを日常的に摂取する習慣に慣らされていくと、味覚で食品の品質を判断することができなくなっていきます。流行で作られた舌というのは味覚のほとんどを表面的な情報で作っているのです。

 コンビニが店舗経営者への負担と引き替えに市場を広げて行くことで専門店や既存の商店・販売は苦しくなっています。これだけの問題があってもラクな方に流れる消費者が多いためです。この循環で肥えるのはチェーンの事業者だけで、利便性を考慮しない場合は作り手・買い手に経済的・品質的メリットは少ないのです。消費者がそのような傾向を強く押し進めていると言えます。当たり前ですが作り手がいなくなれば良い商品や個性的な商品は消滅していきます。消費者は知らず知らず選択肢を失っていっています。

 消費の一極集中・オールマイティであることが優先され、事業そのものの独自性も打ち出しにくくなっていますが、地域が作る製品というものが育たない環境になってきているので最終的に展開した店舗が連鎖的に閉店する時期を迎えるかもしれません。地域の魅力は失われていくからです。都会でも田舎でも変わらないというのがコンビニですからさらに田舎にいる理由もなくなります。

 これだけ情報社会が発達したと言われながら、実は価値のある情報はアクセスしづらい(あるいはより楽に手に入りづらい、ひとりでにマスに流れて来ない、共有しづらい)所にあります。まだまだ圧倒的に広告力や組織力が強いため、インフラありきの商売が力を奮ってしまいます。

 そして食べ物に関しては無頓着な人が多い。食品の品質には生活上の重要度が低いのだと思わされます。そのため余計に食べ物への評価が内容のないものになっています。流行を追う情報は圧倒的に多いものの、品質を問う情報は割合ではとても少ない上に、下手をすると食品業界のタブーに触れかねないためどこにでも配信してコピー自由というわけにはいきません。問題のある食べ物(本意ではない面もあるにせよ、仕事ですので)を流通させている所が社会的な力を持っているからです。

まとめ

 ・利便性優先で急速に失われていく消費市場の現実がある

 ・それを推進しているのは消費者だが、消費者の生活はやせ細っていく。損をしているのは自分

 ・価値のある情報は共有しづらく、受動的に手に入らない

 ・価値のある情報は企業と対立してしまう。このことを悪いとか世の中の流れに逆らっているというような体制寄りのフィルターで見てしまっている人が多いので、ニッチな情報扱いされてしまう

 ・情報は本人の感覚を助けるもので、感覚が情報に乗っ取られてしまうのは本末転倒。使う側から使われる側になってしまっている

 ・生活環境は自身の努力で質が変わる。その努力を惜しみ過ぎではないか。インスタントな消費の機会に考えるようにしたい。

 ・地域を支援することで地域の価値を消滅させていく面があるのではないか

 ・文化と事業のコピーが埋め尽くすことで地域の多様性と独自性が失われる

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