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うつの思考


こんにちは、都知事です。

ここ数日、極端に気の沈んだ状態が続いていますが、心療内科でついに「軽めの躁鬱」と診断されました。

過去にもこう言ったことは何度かあったのですが、自分の中の意地で受け入れようとしていませんでした。弱い自分になるのが嫌だったのです。

しかし、弱い自分もまた自分。
物書きの端くれとして、せめて転んでもタダでは起きないでおこうと筆を取りました。

また途中で嫌になってぐちゃぐちゃになって、ゴミ箱に捨てる事すら嫌になる出来になるかもしれませんが、それも訓練としてやっていこうと思います。

①究極に近いデバフ、鬱

鬱とは、自分を虐待した結果手に入ってしまうデバフだと私は考えます。

(デバフ=自分を弱体化させる異常)

私は「これくらいちゃんとしなくちゃ」「誰とは仲良くしなくちゃ」と、世間体を守る為に自分を押し殺していた部分がありましたが、こういう「本当はやりたくないのにやること」を多く選択すると、心が反発して傷付き、鬱傾向が発生するようです。

これについては完全に誤算でした。まさか自分が鬱になるとは。

しかも、「軽い躁鬱」と診断されたのに、恐ろしく辛い。

日々自分が嫌になって、生きてるだけで全てがマイナスなような、傷つけてきた人達への申し訳なさ、生きてるだけでマイナスな自分は消えた方がいい、死んだ方が合理的という希死念慮が強く押し寄せます。

感情は人があってのものなのに、その感情が大きすぎて人格ごと流されている感覚。

これは後ほど取り上げますが、感情の制御が出来ないと、人間社会で生きる事は不可能です。

②ショートカットキーが使えなくなる感覚

鬱になると、普段できていたことが出来なくなります。これは、心もそうですが、恐らく脳がエラーを起こしているのでしょう。

例えば、トイレで用を済ませた後流し忘れる、服の脱ぎ方を忘れるなど、日頃無意識的に行っている事がふとした時、出来なくなります。

「あれ?なんか忘れてるな…?あ、うんこ流してねぇや」

「あれ?服ってどうやって脱ぐんだっけ?何から脱ぐんだっけ?」
「あぁそうだ、5本指ソックスは指先をつまんで少しずつ外さないと洗った後に履きづらくなるんだった」
「えっと、次は何を脱ぐんだっけ?…そもそも、何が脱げるんだっけ?」

というように、「当たり前すぎる事ができなくなる」現象が起こります。

考えなくても出来てた事、習慣化した事が出来なくなるのは、思った以上に不便です。

そして、「考えなくても出来ていたことが出来なくなる」という事は、「考えなくてもいいことを考えないといけなくなる」という事でもあります。

それがどうなるかと言うと、とにかく無駄な事を考える時間が増えるのです。

靴下はどっちから履こう、手袋は右手からじゃないとはめられない、あれ、手袋片方しかないや。どこいったかな…と、探してるうちに「これ、片方だけ手袋あれば作業出来るやん」と気付いたり。

あとは伝票書く時に、先に原本から剥がすか、原本に繋げたまま台紙を挟んで書くかで悩んだりもしましたね。

とにかく、「それ、今必要?」「すこぶるどうでもいい」事でさえ、すぐにどうでもいいことだと気づけなくなります。

初めのうちは「こんな事も出来なくなってしまった、やっぱり自分はクズなんだ」と自分を責めていましたが、多くの方の支えと励ましにより、何とか持ち直すことが出来ました。

今では「お、これは記事のネタになるな!」「物が書けなくても物書きは名乗ってやるぜ!」と、ポジティブな方向に気持ちを意識的に持っていく努力をしています。

(元々、私は明るく楽天的な性格で、意識せずとも常にポジティブでした)

③感情の制御が出来ない

感情の制御が出来ないと人間社会では生きられないと申しましたが、これは誇張ではありません。

感情の制御とは、日頃人々が当たり前にやっているであろう事です。

どんなにムカついてもキレてはいけない相手の前だと人はキレません。元々の性格にもよりますが、リミッターが意識せずとも働きます。

しかし、鬱だとこれが止められません。
リミッター制御は自分の意思で行っているものではないので、無意識に働くセーフティ機能が作動しないのです。

つまり、キレそうになった時には既にキレているのです。

感情に支配され、制御ができない。
そもそもブレーキを搭載していない車のように暴走するだけ。

そして、散々暴走した後に心が追い付いて、「なんでこんなことをしてしまったんだ」「なんてことを言ったんだ」「お前は人を傷つける愚か者だ、クズだ、死に損ないのクソ野郎だ」
「死んで詫びろ」

と、心が自分で自分を攻撃します。
これがとんでもなく辛いのです。

キレたくてキレた訳じゃない。でもキレるのを抑えられない。

昔、「サトラレ」というドラマがあり、自分の思考が周りに伝わってしまうというものでしたが、あれと似ています。まるで捻りっぱなしの蛇口のよう。

④中身はイカれてるのに見た目は普通

これもまた鬱の辛いところです。
鬱なのに、いつもと違う自分なのに、助けて欲しいのに、苦しいのに、見た目は昨日の自分と何も変わってない。

つまり、「知人友人、職場の人間が元気な自分だと思い込んで関わってくる」のです。

鬱で希死念慮も抱えるうちに、自分が発言することも怖くなって来ます。
「また感情が抑えられなくて心無いことを言ったらどうしよう」、「もう誰も傷付けたくない」、「他人を傷つけた罪悪感に突き刺されて死んでしまう」、そういった想いが込み上げます。

私は自分の弱い所を意識的にアピールするようにしていましたが、これは強い自分が前提にあってのもので、良くて病気自慢なもんでした。

特に仕事中は怖い。対面のコミュニケーションだし、私は外ヅラが良い。ある程度取引先からも信頼を得ていると思ってますし、そうなるよう努力もして来ました。

その結果が、まぁ、これなんですが…

取引先の職員が目の前を通る度、「何か叱られないか」「自分はダメな奴だから知らないところでヘマをしてるかも」「今までは健常だったからカバーできてた部分も今は鬱だから手が回ってないかもしれない、手が回ってない所を想像できない」、など、「なんとない不安」に襲われます。

別に怒られたわけでも何か言われたわけでもありません。ですが、嫌になるほど気になるし、嫌になるほど悪い方向に想像してしまうのです。

(この感覚自体は軽く前からありましたが、鬱になって不安が増幅され、気にならなかった部分が今では不安要素に昇格してしまいました)

⑤ひたすらマイナス、ネガティブな思考へ

私は最近、YouTubeで猫ミームを見ているのですが、それは癒されたり楽しいからではありません。

糖尿病を患って視力を失い、両足を切断した後に亡くなった方の猫ミームを何度も繰り返し見ています。

https://youtu.be/d4ASz6E1HEk?si=V1Jn06mrHCihyMte

このモデルになった方は既に亡くなっていますが、その方に対する深い敬愛の念、身体は障害を負っても心までは自分自身であり続けた死に様へのリスペクトを感じ、「もし今隣に居たなら、励まして肩をさすってやりたい」という慈愛の気持ちに浸れます。

(元々私は死者に対して尊敬の念というか、よく分からない感心を抱いていますが、それが強くなった気がします)

⑥タケちゃん、ごめん

2022年11月26日に亡くなった愛猫、タケル。
タケちゃんは15年の間、我が家で一緒に暮らしてくれました。

そのタケちゃんが命を持って教えてくれたこと、私は「命には限りがあり、いつ誰が居なくなるか分からない。だから、日頃から感謝を忘れず、労い、愛し、その時が来ても気持ちよく別れられるようしておかないといけない」ということ、そして「人間は後悔せずには生きられない動物だから、それも踏まえた上で人の記憶に残る人生にしよう」と言うことを生涯の理念にしているつもりでした。

しかし、母を傷つけ、実家に帰りづらくなり、老い先短い愛猫達と会う機会を失ってしまった。

母がいれば安心ですが、自分自身が関わってやれないのが申し訳ない。

「母と喧嘩していても実家の猫に会うのは出来るだろう」と思われるかもしれませんが、今の私には無理です。自分の心ない発言で傷付けた母に自分の姿を見せる事が許せないのです。

自分が自分を許せない。これ以上母を傷つけたくない。良い息子以外の自分を見せたくない。

今は時間が解決する事を期待するばかりですが、時間は等しく何かを奪いながら進みます。

私はそれが怖い。気付いているのに身動きが出来ないまま失うのが辛い。身動きして更に何かを失うのも辛い。

そして、辛い辛いばかりの自分に価値が見いだせない。死んだ方がいいんじゃないか。そんな闇の自分が心のそばで囁きます。

以上が、私が感じた鬱によるデバフ効果です。
突貫的に書き上げましたが、恐らく添削推敲しても変わらないと思うので、もうこのまま上げてしまうことにします。

異常者の私が添削してもより良いものになるとは思えないので…

では、また。

ps
上記の兆候が出たら、全てをかなぐり捨てて休もう!自分の好きなことだけをしよう!「頑張らない」を頑張ろう!

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