見出し画像

月明かり

毎朝、出かけに妻とのキスとハグを欠かさない。
いってらっしゃい、の言葉に笑顔を返し、ドアを開け、振り向いてまた手を振る。
自宅の目の前が小学校の集団登校の集合場所になっているようで、出発時間が重なると玄関の前に近所の小学生が集まっている。




ぼくたち夫婦を見ていた高学年と思しき女子2名が、顔を寄せてヒソヒソとニヤケ小さく手を振る真似をしている。バイバイだって。あのおじさんとおばさん、いい年して恥ずかしい、といった体で肩をすくめた。そういうお年頃だ。気になるんだね。でも彼女たちの父と母はそういったコミュニケーションをしないのだろうか、と気になったりもする。人前だろうが何だろうが、夫婦が親愛の情を込めて手を振るのは、はたして恥ずかしいことなのか。




娘が保育園に通っていたころ、同じ組の親御さんたちと意気投合した。園の保育士さんの寄り添い方の素晴らしさもあって、家族同士一気に距離を縮めた。家族ぐるみで宴会やバーベキューをするだけでは飽き足らず、十数家族ごとみんなで合宿に行こうとなった。




山中湖で毎年夏遊んでいる我が家が企画段取りし、いざ出発。合宿スケジュールも一任された。そこでせっかくの山中湖を満喫してもらおうと、夜子どもたちを就寝させたあと親だけの一席を設けた。テーマは夫婦愛。新婚当時の瑞々しい気持ちを感じてもらいたくて、おせっかいなイベントを提案したのだ。一組約30分、皆が宴会している間に夫婦ふたりだけで夜の湖畔を手をつないだまま散歩してこなければならない。




皆、ええ~、そんなのムリ~、どうして今更、などと騒いだが、そこは押し切った。しぶしぶという体で夫婦手をつなぎ、順番で夜の湖畔へ。
無理やりやらされた、という言い訳がよかったのだろう。抗議の言葉の割に皆キチンと実行し、出発時とは違う表情で帰ってきた。心もち、キラキラとした顔がほんのりと赤くなっている。ささやかな夫婦の時間に何を話し何をしてきたかは奥さま同士で、やだ~、とキャッキャキャッキャやっていて知る由もないが、まんざらでもなかったのではないか。




最後に、じゃ、企画したてっちゃん夫婦の番。ちゃんとラブラブしてくるんだよ、とすっかり開放的になった皆にからかわれながら送り出された。
夜の湖は真っ黒で、対岸のキャンプの灯りがぽつりぽつりと見えるだけだ。辺りはとても静かで、水面がほのかな風に誘われて岸辺でわずかに波音を立てるばかりだ。煌々と光る月だけが、揺れる湖面づたいにぼくらを追いかけてきていた。




あれから既に十数年。あの夜の湖畔を楽しんだ仲間夫婦の数人が亡くなっている。夫婦には家族には恥ずかしがっている時間などないことを、彼らは教えてくれた。今日当たり前にいる君は、ぼくは、明日はもういないかもしれない。互いへの想いを伝え続けなくてどうするのだ。




あの夜、彼らは愛をどれだけ語り合えたのだろうか。
月はきっと覚えてくれているはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?