見出し画像

底なしコーヒーの時間

今回のテーマ:コーヒー by 福島 千里

ダイナーのコーヒーが好きだ。
コーヒーの味が、ではなくて、あの厚ぼったいマグカップに熱々のコーヒーがなみなみと注がれる瞬間と、そのコーヒーと共にある時間と空間が好きなのだ。そもそもダイナーで出されるコーヒーは、よほど味にこだわっている店でなければ、たいていはうっすーいアメリカンだ。香り高くて美味なコーヒーが飲みたいなら、ちょっとお高いけど流行りの専門店に行けばいい。コスパ重視なら、美味しい豆を買って自宅で淹れるのが手っ取り早い。

でも、なんというか、ダイナーで飲むコーヒーは私にとって特別なのだ。以前、ニューヨークの街角に点在する屋台のコーヒーについて綴ったことがあったが、あのコーヒー汁と同じぐらい、ダイナーのコーヒーには愛着がある。

ダイナーに入店すると、ほどなくしてサーバーがメニューを抱えて着席を促す。席に着くと、サーバーがテーブルのグラスにタップウォーター(水道水)を注ぎながら決まってこう尋ねる。

「Something to drink? (お飲み物は?)」

迷いはない。何を食べるかを決めていなくても、ダイナーで最初にオーダーするものはいつも同じだ。

「Regular coffee, please. (コーヒーを)」

サーバーは小さくうなづくと、慣れた手つきで大きなポットから分厚いマグにコーヒーをたっぷり惜しみなく注いでくれる。時々勢い余ってカップから溢れることもあるが、そこはご愛嬌。かくして目の前にあるのは、香りも、風味もない、あい変わらずうすっぺらな味わいのコーヒーだ。でも、これこそが騒がしい大都市の中で温かく迎え入れられているという実感になる。


マンハッタンに残る貴重なダイナーの一つ。ネオンサインについつい誘われる

近年のニューヨークでは、いわゆるダイナーと呼ばれる昔ながらの大衆食堂はかなり減った。私が学生だった20年以上ぐらい前は、まだマンハッタン区内のダイナーには活気があったと思う。ちょいと油っこいけど、学生には嬉しい、安くてボリュームたっぷりの食事。何杯でもおかわりできるコーヒー。よく”Bottomless coffee”なんて看板を店内外に掲げていたけど、まさに文字通り、たいていのダイナーではコーヒーは飲み放題だ。しかもあっさりしているだけに、胃がもたれることもなく何杯でもいける。この底なしコーヒーをお供に、勉強したり、読書に耽ったり、仕事の企画を練ったり。何より24時間営業しているから、試験勉強の追い込みをしたり、友人の人生相談に夜通しつき合ったなんてこともよくあった。思えばダイナーでコーヒーを飲むひとときは、私にとっていつも日常の中の特別だった。

それが今やニューヨークに押し寄せる再開発と地価高騰の波に飲まれ、古き良きダイナーは年々姿を消していった。たとえ店舗を維持できても料理価格は釣り上がる一方だ。昔は4~5ドルほどだった簡単な卵料理も、今は10ドルを軽く超える。コーヒーにいたっては、1ドルが3ドル前後に。“ちょっといい豆を使っている”ということで、5ドル近くするダイナーもザラ。一番の魅力だった”おかわり”さえさせてもらえないところも出てきた。

そんなわけで、ここ数年はなんとなくダイナーから足が遠のいていた。なじみの場所や空間が、年々姿形を変え、ついには消えてしまうのは寂しいものだ。が、つい先日、週末のブランチで自宅があるニュージャージー州内のダイナーを訪れる機会があった。

週末の朝9時だというのに、店内は家族連れでごった返している。腕を伸ばせば届きそうなすぐ隣のテーブルでは、おしゃべりに夢中なパパママをよそに、4〜5歳ぐらいのおチビちゃんが口いっぱいにパンケーキを頬張っている。サーバーが運ぶ食器がガチャガチャと触れる音、キッチンにオーダーを伝える大声、それに負けじと声量を上げて会話に興じる客たち。小洒落たレストラン(などには最近はめっきり行っていないが。なんせ物価高)とは違ってちょっとばかり騒がしいが、この雑多さが私には心地良い。

しばらくしてバタバタとサーバーが私たちのテーブルに駆け寄り、ピッチャーからコップに水を注ぎながら問う。

「Something to drink? (お飲み物は?)」

「Regular coffee, please. (コーヒーを)」

ふと、騒がしいマンハッタンのダイナーに思いを馳せた。
あぁ、変わらないでほしい。
そう願いながら、目の前で注がれたばかりのコーヒーを口に運んだ。
xxx


この日の週末朝ごはん。スクランブルエッグ(卵2つ)とお店自慢のホームフライ(マッシュしたじゃがいもにシーズニングを加え、カリカリになるまで焼いたもの)、トースト付き($7.50)。そしてちょっと今風の上品なカップだが、中身は美味しいコーヒー$2.50(ちなみにおかわりし放題)。ニュージャージー州はニューヨーク州に隣接する州だけど、生活物価はマンハッタンに比べると比較的安め。


◆◆福島千里(ふくしま・ちさと)◆◆
1998年渡米。ライター&フォトグラファー。ニューヨーク州立大学写真科卒業後、「地球の歩き方ニューヨーク」など、ガイドブック各種で活動中。10年間のニューヨーク生活の後、都市とのほどよい距離感を求め燐州ニュージャージーへ。趣味は旅と料理と食べ歩き。園芸好きの夫と猫2匹暮らし

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?