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父の話

 古い写真を眺めている。

 ソファに、私と父が並んで座っている。黒のシャツを着た私は18、パジャマ姿の父は47。大晦日の夜なので、二人とも酒で顔が赤い。

 この夜のことは何となく覚えている。写ルンですのフィルムが余っていたから、せっかくだから撮ってくれと、姉にお願いしたのだ。
 父は疲れていたのか酔ったのか、随分とくたびれて見える。今現在の自分よりも年下の男には見えないが、それは時代のせいだ。昭和のアラフィフは、令和のそれより、普通に大人だし、おじさんだ。
 何にせよ、写真を撮ってその5年後の大晦日には、父がこの世にいない、なんてことは、想像だにしなかった夜だ。

◇ ◇ ◇

 父は北海道、積丹半島の根元にある、岩内町という小さな町の生まれだ。祖母と祖父が住んでおり、先祖代々の墓もあるので、夏休みになるとよく連れて行ってもらったものだった。当時は漁師をやって生計を立てている人が多かった町で、祖母の家や周りの家の人たちらの、玄関口の作業場で網を直していた姿をよく覚えている。
 私が小学生高学年の頃などは、自衛隊の船が寄港し、一般客を乗せて遊覧運行した際に乗せて貰ったりした。夏の岩内怒涛まつりでは打ち上げ花火を観たり、海も綺麗で、よく泳いだものだ。

 父が幼少の頃はまだ戦時中だったから、樺太に疎開していた時期もあったらしい。戦後、岩内町は大火に見舞われ、町の8割が焼け野原になってしまった。父の家も例外でなく、それ故、父の子供時代の写真を見たことはなかった。父の死後に初めて、祖母から1枚写真を貰って、初めて子供時代の父を見たのだ。
 父が幾つの時かは知らぬが、父の両親は離婚している。私の父はその後、自分の父親に一度も会えなかったようだ。一度、父が学校から帰ってくると、自分の父が岩内にいたという話を聞き、雪の中、駅まで探しに行ったが、果たして会えなかったのだ、という話を聞いたことがある。
 その後、中学を卒業した父は、ひとりで札幌にやってきた。父は石原裕次郎に憧れていた。実際、体躯や顔つきなど、よく似たところがあり、兄貴肌の雰囲気を漂わせていた。そんなこんなもあってか、札幌で演歌師の元を訪ね、ススキノでギターを持って「流し」をやっていた。その演歌師の妹が私の母で、当時高校生の母はその家で父と知り合い、やがて結婚することとなった。
 父は実際よく通る声の持ち主で、歌は抜群に上手かった。姉の結婚式の時に歌ったのだが、その時などは、参加者皆聴き惚れ、
「お父さんプロの歌手?」
とまで言う人がいたほどであった。  
 恐らく流しをやっていた頃なのだと思うが、詳細は知らぬが喧嘩か何かでヤバイ事になって、東京に逃げていた時代もあったらしい。

 私が物心つく頃には、父は所謂、興行の仕事をしていた。なので「宇宙遊泳」なるお祭りの遊具、エアで膨らんだ室内をトランポリンのように跳ね回るアレだが、そんなのはしょっちゅうタダで入れてもらったし、サーカスのバイクショーも好きで、何度も見せてもらった。女子プロレスはマッハ文朱が全盛の時代だったが、実物に会わせてもらったし、地方で大物歌手の舞台裏に連れて行ってもらったこともある。その方は未だ現役で名前を出せば誰も知らぬ人はいないであろう大御所だが、舞台裏では愛想のひとつもない人であった。と言って悪い印象はない。舞台の直後に連れて行った父が悪いのだ。
 父のことは決して嫌いではなかったが、そういうちょっとした不躾さを感じる事が時々あった気がする。私はとても小さい声で喋るタイプで、声の大きい人があまり好きではないのだが、それは私の父親像が何らか影響しているのかも知れないとも、この頃少し思う。
 ともあれ、父の仕事はそういう風だったから、地方に行っている事が多く、家にいる日は少なかった。

 その頃の思い出で、未だに忘れられない事がひとつある。小学生の私が小路を自転車で走っていると、狭い小路なのに、後ろから白い車がどんどんと寄ってきて、私の自転車にジリジリと幅寄せしてきた挙げ句、終いに私は建物の塀と車に挟まれ、動けなくなった。やがてチンピラのような運転手が降りてきて、
「坊や、車にキズ付いちゃったなあ。家何処だい。連れて行ってもらってお父さんと話しないとなあ。」
と言った。
 私は、とんでもないことになってしまったという恐怖と、何とも言えない悔しさで、泣き出したいのを我慢しながら、家に向かった。後ろからは白い車が着いてきていた。
 やがて家に着き、玄関を開けると、たまたまその日は父が家にいる時であった。
「お父さん、この人が、話があるって。」
 私はそう言うのがやっとで、一目散に奥の部屋の二段ベッドの下に隠れた。堪えていた涙が溢れ、怖くて様子を伺う事も出来ず、ただただ泣いていた。その間、「子供のやったことだろうが!」という父親の怒号を聞いた、気がする。
 やがて「帰ったぞ」と一言だけいって、父は私を二段ベッドの下から引っ張り出した。父は、私に一切の状況確認もなく、つまりひょっとすると、本当に私の不慮によって車にキズを付けた可能性すら確認せず(勿論、そうではなかったが)、ただ、チンピラを一瞬で追い払ったのだった。
 そういう人だった。

 私が中学生になる頃、と言うことは父は40になったあたりかと思うが、父は普通の勤め人になった。普通の勤め人、といっても、会社員になった、ということで、デスクワーク等やるはずもない父は、地方のデパ地下などに催事で短期の売り場を出して、中華料理を調理して売る仕事に就いた。父の料理は昔から美味しかったから、向いていたのだと思う。そういう仕事故、相変わらず家にはいないことが多かった。トラックに一式を積んで、地方から地方へ回り、時折帰ってくる、という暮らしぶりだったと思う。お土産でムツゴロウの佃煮、みたいなものを食べたことがあるから、随分といろいろ地方を回っていたのだろう。

 小6の年末だったと思う。父が電話をかけてきた。お土産、何がよいか、と言われ、私は「イエロー・マジック・オーケストラのレコード」とお願いした。電話の向こうでメモをしている様子が伺えた。頼みながら、父の行っている町に売っているのだろうか、売っていたとしてそれを見つけることが出来るのだろうか、と子供心に一瞬不安を感じたが、父は誰とでも話が出来るタイプだし、恐らくレコード屋の店員にでもパッとお願いして、パッと見つけるだろう、と思い直した。私は父の帰りを、お土産を待っていた。父が帰ってきたのはとても遅い時間だったが、果たして父はちゃんと、YMOのレコードを買ってきてくれた。それは今も手元にある。

 その後、父は会社を辞め、会社勤めで築いた人脈から、独立開業することを決めた。しかしその仕事を始めて一年も経たぬうちに、父は悪性リンパ腫にかかり、そして53の誕生日の少し前、52歳で亡くなった。
 病気がわかってから亡くなるまでは、本当にあっという間だった。こんな身体が大きくて立派な人が、病気になるとこんな一瞬で死んでしまうのか。そう思った。病院で息を引き取るのを見送った瞬間、私は悔しくて父のベッドを蹴飛ばした事を覚えている。私が23の時だった。

 大人になってから何より悔しく思ったのは、人生の折々で、父がいたなら相談したい場面が沢山あったが、それが叶わなかった、という事だ。転職しようと思った時、結婚する時、子供が生まれた時、離婚した時、私は常に悩んだ。竹を割ったような性格の父であれば、何とアドバイスしてくれるだろう。それを思った。だが父はいない。仕方ないので、悩みに悩んでひとりで全てを決めてきた。
 しかし、そんなこんなで何とか人生を生き抜いて、気づけば私も51、亡くなったときの父に追いつきつつある。
 生前の父は私にとって、とにかく強い人間であった。しかし私自身、この歳になって改めて思うのは、雪の中、駅まで自分の父親を探しに行った父、会えずに帰ってきた父は、果たして生まれつき強い人間だったのか、表には決して表さない内面で、どんなことを考えていたのか、そんなことを考えるようになった。今の私と同じように、常に自問自答し、生きてきたのではなかったのか、と。
 何より幼少時代の父の話は全て、本人ではなく祖母や親類づてに聞いた話で、当人はまったく、自分の過去や、自分の心の内など、聞かせてくれたことはなかったのだ。私が物心つくときには祖母は再婚していたから、私は普通に祖父を父の親として認識していたが、再婚だったという事を知ったのは随分後になってからの話だ。それほど父は、義祖父を実の父のように慕っていた。
 今ようやく、父親としてでなく、ひとりの男としての父に、想いを馳せる事が出来るようになった気がして、それだけ自分も、年齢と経験を重ねてしまったのだ、と思う。しかしその想いを、父と共有することは、叶わない。

 生きていると色んな出会い、そして別れがある。会わなくなった、会えなくなった人達のことを考える。ただひとつ言えるのは、自分の親のことは、決して忘れる事はない。永遠に、自分の中に、生き続ける。そしてその想いが、自分を常に支えていてくれている。そんな風に思う。

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