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突然ショートショート「のびのび」

 まだまだ寒さの抜けない日のことだった。私は人事異動で欠員の出た別の支店へと回されることが決まり、都心からぐっと離れた小さな街へと移住することとなった。

 上司は「のびのびやれて君に素晴らしい職場である」という。
 いわゆる左遷か、とも聞いてみたが「それは違う」とのこと。

 今までの仕事は主に大企業を相手にした機械製品の営業だったが、今度はガラリと変わって中小企業や町工場が相手となる。

 移住の準備などで時は流れ、いよいよ転勤先での最初の日がやってきた。
 暖かくなって過ごしやすい日々となり、通勤経路には桜が咲くようになっていた。

 そして、新たな事務所が見えてきた。3階建てで小さめながら、1階にガレージも併設されてしっかりした建物だ。
 出入口では新たな同僚となる社員が待ってくれていた。

「おはようございます!」
「おはようございます。今日からここに来た安田やすだです」
「あっ、ここでしばらくやってきた松尾まつおです」
「あっ、これはどうも…ん?」
「これがここの鍵になりますので。うちの支店の未来は任せました。よろしくお願いします!」
「え?」
 処理が追い付かなかった。新参者には随分と重い台詞が出てきたからだ。
 その松尾さんは鍵を渡すと、大きく一礼してその場を去っていった。

 中に入って、とりあえず仕事部屋まできた。
 予定表の大きなホワイトボードの名前欄には、なぜか『安田』の欄しかなかった。

 おかしいと思っていると、『支店長より』という題の置き手紙があった。
 小さなメモ用紙にはこう書いてあった。

 「安田さん あなたが新しい支店長にして当支店唯一の従業員です 全て任せました さようなら」
 そして「P.S 少ししたら他の支店から新しい人がやってきます 全員が辞めたり異動したりしました」と。

 不安でしかない。何が「のびのび」だ。一支店の未来という大役を任せれて、のびのびとやれる訳がない。

 と、いうことがあってからもうすぐ3週間ぐらい。
 あっという間に桜が葉桜に変わってしまったが、未だ「新しい人」は来ていない。
 「少し」というには長すぎる。

(完)(849文字)


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